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高田荘(中世)


鎌倉期~戦国末期に見える荘園名豊後国大分郡のうち大分川と大野川にはさまれ,一部は大野川右岸に及ぶ地域で,大分市の東部に位置し,北は別府湾に接する当時は東は国衙領小佐井郷・丹生【にう】荘,南は戸次【へつぎ】荘・国衙領毛井・津守荘,西は津守荘および笠和郷に接する建久4年2月15日の豊後国留守所下文案に,「高田庄二百余丁」と見えるのが初見これは八幡宇佐宮の南楼作料粮米38石(町別1斗9升)を高田荘に課したものである承久3年10月,留守所は宇佐宮仮殿行事官入物雑事を沙汰し,建長7年9月には,宇佐宮南楼造営材木を勤仕せしめ,正嘉元年5月には南楼博風戸立棟祭雑事を勤済せしめている文永年間の大隅国正八幡宮大神宝調進の史料によれば,高田荘地頭代はそれを拒否したらしく,文永10年5月11日守護大友頼泰は催促に応じるよう命令を出しているこれに対し,地頭代盛実は,5月13日正地頭三浦介殿の命を待って決定したいと申し出ているここに地頭代と大神宝催促使との間に抗争が起こり,相論へと発展する(以上陵八幡文書/県史料30)「弘安図田帳」によると,「高田荘二百町内百八十町領家城興寺,地頭三浦介殿」とある不足分20町は牧村で,領家は三浦助殿,地頭は御家人牧三郎とある高田荘が城興寺領となった経緯は不詳また三浦介について後藤碩田は,三浦泰盛・三浦頼盛・三浦宗景などに比定しようとしているが確証に欠け,給付の時期および由来も不明(大友史料3)建武2年9月,足利尊氏は高田荘を勲功賞として,三浦介高継に宛行っている(宇都宮文書/大友史料5)高田荘田所職は,後藤頼綱が相伝し,正和2年甥覚念に譲与されたが,後藤四郎某が押領したため,覚念は建武3年7月,もとのように田所職,屋敷田畠などの安堵を訴えている(田北文書/県史料13)正平6年12月19日の下文によって,高田荘(三浦介跡)は足利義詮から大友8代氏時に宛行われ,文和3年2月氏時に渡付けられた(大友文書/県史料26)この頃氏時は徳丸名字の地を徳丸藤内左衛門尉に預けている文中3年10月懐良親王は,高田荘領家職を兵粮料所として阿蘇惟武に宛行っているが,大友惣領家の所領となっているので,おそらく不知行であったと思われる貞治3年2月の大友氏時,永徳3年7月の大友親世の当知行所領所職中に高田荘が見える(大友文書/県史料26)永享12年4月高田荘本給内30貫分が,親職によって御手洗掃部助に預けられており,正月8日(年未詳)には親郷によって高田荘・成松名などが徳丸六郎に宛行れているが,両者の名はともに大友惣領中には見出せない(種具文書/県史料26,徳丸文書/県史料9)しかし,国東町文殊仙寺所蔵の鰐口の銘文に「守護大友豊後守親職」とあることからすれば,守護職を帯した人物であることは疑いない時代的に見れば15代大友親繁と同一人物であろうか大友15代親繁は,高田荘徳丸名内26貫分を中村次郎三郎に宛行い,高田荘政所を通じて打渡している(中村文書/県史料25)16代政親は高田荘成松名内平林弾正忠先給内10貫分を平林四郎に(平林文書/県史料25),永正14年10月には20代親安(義鑑)が深町兵三兵衛尉跡10貫分を斎藤五郎太郎に(大友家文書録/大友史料13),12月20日には藤嶋名内魚返分5貫分を後藤新兵衛尉に預け(大友家文書録),また義鑑と名乗ってからは,賀来五郎太郎跡内10貫分を小原弾正忠に預けている(渡辺文書/県史料12)高田荘内の名は室町期の史料から見えはじめ,天文15年5月には徳丸名内に扇名が成立した跡を窺える(徳丸文書/県史料9)戦国末期の天正5年12月時点での名に,門田名・別保名・成松名・徳丸名・徳久名・猪野名・用分名・三川名・藤嶋名・種具名があげられている(柞原文書/県史料9)が,ほかに萩原村・福重名・扇名・三佐村・海原村・家嶋・寺路(司)村・鶴崎村・乙津村・国宗村・住吉などが見える(後藤文書/県史料25)近世は地域の総称として用いられている




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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