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市木村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日向国那珂郡のうち。高鍋藩領。村内は市木川を挟んで市木川北と市木川南に分かれ,市木川北は海北・六郎坊の2か村とともに市木川北郷に属して市木川北庄屋の管轄下にあり,市木川南は単独で市木川南郷を形成した。村高は,寛文4年「日向国之内秋月領地覚」(隈江家記/川南町史),元禄11年「日向国覚書」には1,589石余,「天保郷帳」には2,155石余,嘉永7年「領知郷村高辻帳」(日向国史下)には1,589石余,「旧高旧領」では3,337石余。村内には市木川北郷・市木川南郷の庄屋が置かれ,庄屋の下には小触・組頭・口才などの地方役があった。また村内は数組に分かれ,組の下に門があり,門には乙名が置かれた。年貢上納は海北村および六郎坊村と合わせ市木村一村として行われていたらしい(内務省諸願伺届/県古公文書)。地内藤には津口番所,また相ケ崎には遠見番所が設置され,遠見番所は藩からの出役番代が在任し,番代は給人・大小姓(のち小給)クラスが勤めた。番代屋敷は当初石波村にあり,宝永3年藤村御蔵御役所と交代しているが,これは石波村に米蔵があったためである(拾遺本藩実録)。また御牧(藩牧)として戸崎牧(本牧)・相ケ崎牧の2か所があり,里牧(百姓牧)は市木川北には郡司部・堀之内・中福良・海北・藤・松中,市木川南には山口・丸峰・川内・山下・石原・野地・内畑・門前【もんぜ】・八ケ谷・石波2か所の合計17か所にあり,焼印は川北では丈・ろ・や・山・ふ,川南では―・・木・二・一・M・八・木(木に○囲み)・つ・すなどである(旧文書)。貞享3年の「高鍋藩寺社帳」によると,三十五社大明神(現市木神社)は,本地を聖観音とし,陽成天皇第1皇女を祀るとあり,皇女は故あって隠岐国に遠流となったが日州福島院市木浜に漂着したという。村上天皇のとき天暦2年に岩下三十五大明神を建て,後に康正2年野辺刑部平盛仁が再興,永正14年島津忠朝,天文21年には島津忠親が再興したという。江戸期には高鍋藩の3代藩主秋月種信のとき再興され,神領4石5斗が宛行われている。正月初めの子の日に御狩祭り,9月中申の日に流鏑馬が催されたという。元禄初期の奉納灯が2基ある。寺院は臨済宗高鍋竜雲寺末が4か寺あり,このうち瑞雲山竜源寺は阿弥陀を本尊とし,中興開山堂禅師は暦応元年寂とされる。現在跡地は市木中学校となって,校庭の南側に墓地があり,室町後期の五輪石塔群,歴代住職の墓,寛文・元禄・宝永年間の墓石がみられるが,いずれも移したもので完全な姿をとどめていないものが多い。このほか,同派の瑞宝山長勝寺・養寿庵・善栖庵があった。明治4年高鍋県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年南那珂郡に属す。明治5年,地内に門前小学・郡司部小学が開設された。同7年の村況は,反別186町9反余,戸数63・人員293(内務省諸願伺届/県古公文書)。同8年海北村・六郎坊村を合併した(日向地誌)。この合併理由については,3か村がともに村域が錯綜して地券発行実地調査が困難であること,近世においては年貢上納などは事実上市木村一村としてとり行ってきたことなどが挙げられている(内務省諸願伺届/県古公文書)。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治9年5月9日で,同書によれば,村の規模は東西約2里18町・南北約3里,東は海浜に至り,西は本城村および北方村,南は大納村および都井村,北は秋山村および潟上村・熱(贄)波村と接し,宮崎県庁からの里程は南へ約15里20町,地勢は「東ハ滄海ニ面シ,群山其三面ヲ環繞ス,平地ハ僅ニ十分ノ二ヲ得タリ,陸運便ナラスト雖トモ海運ノ便アリ,薪秣モ亦足レリ」とあり,地味は「其田瀕海ノ地ハ真土砂土交錯シ,迫々ハ黒ソミ土多シ,其質中ノ中,畑ハ赤黒相混シ,砂礫雑リノ土多シ,其質亦中ノ中,水利ハ便ナリ,其不便ナルハ十ノ一ニ過ス」と見える。また,税地は田253町余・畑66町余・宅地27町余・切換畑26町余・山林33町余・原野66町余・芝地6町余・藪2町余などの計483町余,無税地は2反余,官有地は山林94町余・原野226町余・藪6町余などの計328町余,貢租は地租金2,602円余・雑税金600円余の計3,202円余,戸数354(うち神社1)・人数1,495(男790・女705),牛115・馬818,舟30,村内の字地別戸数は海北35・六郎坊62・西口50・八ツケ谷12・石波60・藤浦60。学校は人民共立小学校が地内郡司部(生徒数男22・女22),旧竜源寺門前(生徒数男54・女20)の2か所にあり,戸長役場は古戸にあった。民業はほとんどが農業を営み,農間に漁業に40戸,工業に28戸が従事した。物産は魣・鰺・鯖・鰤・小鯛・鰮など,糶1,800石,甘蔗3,000貫,櫨子400貫,杉材木900片,杉板100坪,炭2,500俵,苫600枚,椎茸20箱。また地内の牧場として大瀬戸牧・諸毛牧・上リ尾牧・丸尾牧があり,道路は北の熱波村境から南の大納村境まで都井往還,本村の中央から西北の潟上村境まで潟上往還,ほかに山西往還が通る。さらに地内の山に高旗山があり,川は市木川,用水は岩下溝・寺田溝・禰古呂木溝・永吉溝・徳永溝・浜田溝が流れ,森林に諸毛雑樹林・赤松ケ尾雑樹林・赤松ケ尾杉林・銭山雑樹林・横川山雑樹林・弦桂山雑樹林・梨平雑樹林・小島雑樹林・海浜松林・大谷山雑樹林・夫婦浦雑樹林,湖沼に迫田池・八段田池・内ノ畑池・八ツケ谷池・石波池・鳥越池・木屋ノ宇土池・大藤ノ宇戸上ノ池・大藤ノ宇戸下ノ池が記される。明治10年の「戸数調帳」(雑書類/県古公文書)によると,市木村の内わけは岡峰15・六郎坊8・郡司部26・小持田10・堀之内4・珎桑峰3・永吉2・平田7・海北21・妙戸浦3・中福良24・古戸12・藤58・大藤3・築島1・横川3・山ノ口14・上ノ原3・下の原3・石原14・内ノ畑7・坂本2・門前11・八ケ谷15・石波42・浜23となっている。「出軍名簿」によれば同年の西南戦争に際し,当村からは坂田諸潔を隊長とする西郷軍に18人が出兵した(雑書類/県古公文書)。同21年の人口1,642,反別は田253町余・畑93町余・宅地26町余・山林29町余・原野52町余・雑種地3反余の合計465町余,諸税および町村費の納入額は国税2,615円余・地方税938円余・町村費324円余・協議費362円余,村有財産は耕宅地2町余・山林2町余・雑種地25町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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