加久藤郷(近世)

江戸期の郷名。諸県郡のうち。鹿児島藩直轄領。外城の1つで,大・中・小の3区分のうち中郷にあたる。所属の村は,川北村・栗下村・榎田村・東長江浦村・西長江浦村・灰塚村・西郷村・湯田村・小田村・永山村の10か村。地頭仮屋は小田村に設置され,麓には郷士が集住した。文政7年の「名勝志御再撰方糺方帳」(加久藤名勝志)によると,元亀3年からの歴代の地頭は,川上左京亮・南郷若狭守・五代小左衛門・上井忠右衛門・五代小左衛門・伊地知杢右衛門・伊地知主膳・諏訪宗女・桂八左衛門・伊東五右衛門・鎌田後藤兵衛・中神蔵之介・新納小左衛門・島津主水・尾上甚五左衛門・島津求馬・川田伊織・島津主右衛門・山岡右京・畠山内膳・山田権右衛門・相良典礼・吉井笑八郎・新納次郎四郎。宝暦年間の郷高は9,043石余(日向国史下)。郷帳類における10か村の合計村高は,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」,元禄11年「日向国覚書」および「天保郷帳」ではともに4,908石余,「旧高旧領」では8,956石余。寛永16年究と注記される諸郷士給地高は1,153石余,うち460石余が地頭伊地知杢左衛門乗馬一騎,46石余が寺家,衆中は169人,うち知行取109人(うち1人が地頭で30石以上)・一ケ所取50人・寺家3人(島津家列朝制度/藩法集8下)。「薩藩政要録」によれば,地頭は吉井笑八郎,郷士惣人数442,郷士人躰数252,所惣高8,929石余,郷士高1,053石余(うち寺高78石余),村数は10か村(川北村・栗下村・榎田村・東長江浦村・灰塚村・西郷村・湯田村・小田村・永山村・西長江浦村),用夫数373・野町用夫数34。文政8年の「名勝志御再撰方糺方帳」では,当郷の周囲は11里25町4間,惣人数2,147,惣高領8,887石余,竈数473(えびの8号)。「要用集」では,地頭は島津勘解由,郷士惣人数421,郷士人躰数251,所惣高8,944石余,郷士高1,033石余(うち寺高79石余),用夫数359・野町用夫数23。存在が確認されている門数は,西郷29・川北17・栗下19・湯田13・永山24・東長江浦24・西長江浦30・灰塚16・榎田7・小田12(加久藤町郷土誌)。榎田村牧之原には肥後国人吉藩領との境として求磨口関が設けられ,番士が交通を監視した。「三国名勝図会」によれば,鹿児島城下から17里半に位置し,神社は栗下村に二宮大明神社,中福良【なかふくら】村(小田村)に三社大明神祠・飛諏訪神社・熊野権現社,長江浦村(西長江浦村)に諏訪大明神社・山神祠,吉村(東長江浦村)に稲荷神社,西郷村に若宮があり,寺院は栗下村に真言宗高連山福性院二之宮寺・天台宗聞法山日枝寺三徳院と地蔵堂,中福良村(小田村)に真言宗光林山吉詳院不動寺・曹洞宗瑞亀山徳泉寺,西村(川北村)に真言宗阿闍梨山悉皆院彦山寺があった。また,物産は,五穀類として粳米,蔬菜類として蕨・薇・香蕈・丁蕈・天花菰,薬品類として柴胡・茯苓・紫根・金銀花・瓜蔞実・樟脳,飲食類として茶,樹木類として樟・櫧・甜櫧・檜・樅・栂・桐,飛禽類として鸂・雉・
雉・鶉・雕・白鷺,走獣類として野猪・鹿・猿・狼,鱗介類として
・いだ・鯰・亀・鼈があげられている。明治4年の「薩隅日地理纂考」では,鹿児島城下から北東へ17里に位置し,東南は飯野郷,西北は真幸,北東は肥後求磨郡に接し,周囲11里25町4間,村落10(川北村・栗下村・榎田村・東長江浦村・西長江浦村・灰塚村・西郷村・湯田村・小田村・永田村),高8,947石余,戸数528・人口2,055,うち士族人口712(男381・女331)。同年の廃藩置県に伴い,行政単位としての郷名は消滅した。なお,明治22年の市制町村制施行に際して,当郷の10か村は合併して加久藤村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7459921 |