櫛津土々呂村(近世)

江戸期~明治22年の村名。日向国臼杵【うすき】郡のうち。古くは櫛津村・土々呂村の2か村に分かれていたが,正徳年間以後に一村になったという。なお,「日向地誌」には土々呂村と見え,「故老ノ伝フル所ニ拠レハ本村元ト湾海ナリシカ漸次ニ開築シテ平地トナセシ所ナリ,サレハ古ハ村名ナク隣村ニ属セシ字地ナリシニヤト想ハル」と記されている。延岡藩領。恒富組に属す。村高は,「寛永11年差出」(国乗遺聞)には串津村64石余・土々呂村56石余に分かれて見え,元禄11年「日向国覚書」にも櫛津浦64石余・土々呂浦56石余とあり,延享4年「拝領諸村高帳」(日向国史下)には土々呂櫛津村として235石余(うち前々より改出114石余),ほかに土々呂櫛津村新田として60石余(うち前々より改出13石余,拝領後改出38石余),「天保郷帳」には「古者櫛津村 櫛津土々呂村」とあり309石余,「旧高旧領」でも309石余。当村は土々呂湊を擁する漁村であり,また土々呂には口屋番所が置かれて出入りの船舶・貨物から口銀を徴収した。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際,高橋元種は多くの兵船を使用し,水夫として漁民の中の屈強な者を選んで採用したが,彼らにはのちに賞として土地が与えられており,櫛津地方の「カコ地」と伝えられるのはその名残であるという(延岡市史)。庄屋には延享5年の藤三郎が知られる(延陵旧記)。また同時期の村の租率は「四ツ二分,同八分下」であり(御城附村々卯秋取付帳写),夏割付は「大麦高拾石ニ付壱斗壱升」であった(夏御物成定法/延岡市史)。神社は彦火邇々杵命・天櫛津大来目命を祀る櫛津神社と彦火火出見命・品陀和気命・豊玉気命・彦火邇々芸命を祭神とする霧島神社があり,寺院は曹洞宗延岡台雲寺末の福聚山極楽寺がある。明治2年の竈数石高人別調帳(明治大学蔵内藤家文書)によれば,土々呂櫛津村と見え本田高235石余・新田高73石余,竈数196・人数869(男462・女407)。明治4年延岡県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年東臼杵郡に属す。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治12年4月23日で,同書によれば,村の規模は東西約25町・南北約30町,東は海浜に至り,西は加草村,南から西南は庵ノ川村,北から西北は伊福形【いがた】村,東南は鯛名村と接し,宮崎県庁からの里程は北へ約19里25町,地勢は「群巒三面ヲ繞リ,東一面海湾海ヲ帯フ,平田其中ニアリ,運輸便利,芻秣多シト雖モ薪炭足ラス」と見え,地味は「其田八分ハ砂土,二分真土,其質中ノ中,畑ハ五分砂土,五分真土,其質中ノ下,水利は便ナラス,乾旱ノ患多シ」とある。また,税地は田45町余・畑32町余・宅地7町余・山林109町余・原野180町余・荒地4町余・曝網場3町余・藪10町余などの計394町余,無税地は計1町余,官有地は山林2町余などの計2町余,貢租は地租金674円余・雑税金318円余の計993円余,戸数232(うち社2・寺1)・人数1,286(男630・女656),牛11・馬83,舟116,村内の字地別戸数は櫛津50・土々呂200余・僧都ケ浜2・打出ケ浜4・井ノ尻6。学校は地内宮ノ内に人民共立小学校があり,生徒数は男70・女10。戸長役場も宮ノ内にあった。民業は農業に72戸,漁業に140余戸,商業に12戸,工業に1戸,医業に1戸が従事した。物産は,駒20頭・鰮150万尾・鮪子5,000尾・鰤500尾・鰹2万尾・鯖20万尾・小鯛3,000尾・鮃600尾・鰈60尾・鰣3,000尾・万引3,000尾・海鼠250尾・烏賊1,500尾・鰺1万5,000尾・鱶大小150尾・魳1万尾・魚油1石・酒60石・焼酎6石。さらに,用水は寺田溝・白馬溝・井ノ奥溝・船越溝・僧都ケ浜溝を利用し,道路は大分県街道が通り,港は土々呂湊があり,古跡として松尾城跡が記される。明治20年土々呂小学が伊福形小学と合併して簡易土々呂小学校が創立された(延岡市史)。明治21年の戸数281・人口1,592,反別は田55町余・畑35町余・宅地8町余・池沼8反余・山林134町余・原野198町余・雑種地4町余の合計438町余,諸税および町村費の納入額は国税3,795円余・地方税1,818円余・町村費235円余,村有財産は原野191町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年伊形村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460094 |