富吉村(近世)

江戸期~明治22年の村名。日向国宮崎郡のうち。延岡藩領。跡江組に属し,宮崎代官所の管轄下にあった。村高は,元禄11年「日向国覚書」には785石余,延享4年「拝領諸村高帳」(日向国史下)には1,326石余,ほかに富吉村新田として41石余と1石余,「天保郷帳」および「旧高旧領」ではともに1,369石余。延享3年8月村民が庄屋に抵抗して幕府巡見使に直訴する事件が発生,翌年3月内藤氏が延岡に入部してその藩領となってから審理にかかり,庄屋らは謹慎,百姓は入牢の処分を行った。その後,寛延3年冬頃から宮崎郡内5か村(富吉・大塚・大瀬町・長嶺・瓜生野村)が申し合わせて宮崎代官所(下北方村に所在)へ嘆願書を提出,内容は検見の実施,上納米俵拵えの緩和,物成・未進米の上納延期と年賦払いの要求であった。内藤家文書にはこの時の模様を「百姓等新年を迎える心掛け一切なく,家の手入れせず垣根は破れ,正月飾りもなし。月代ヒゲは伸びるにまかせ,要求通らずば薩州立退くと,川船を用意して」と述べている。藩の軟化と村役人・寺院の働きで1月末には一応の落着をみた。しかし3月末に権現山の御用松伐採事件を契機に再び不穏な動きがおこり,佐土原【さどわら】藩領に逃走した大塚村庄屋久右衛門ほか各村頭取4名は延岡で打首,宮崎で3日間獄門にさらされ,また領内追放4名を出すという大処罰で永年の村騒動は終わった。神社は地内山下に日売神・誉田別命を合祀する富吉神社がある(日向地誌)。明治2年の竈数石高人別調帳(明治大学蔵内藤家文書)によれば,本田高1,326石余・新田高42石余,竈数217・人数882(男467・女415)。明治4年延岡県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治9年11月頃で,同書によれば,村の規模は東西約21町・南北約30町,東は柏原村,西は諸県郡倉永村・下倉永村,南は長嶺村,東南は浮田村,東北は諸県郡有田村,西北は同郡花見村と接し,宮崎県庁からの里程は西へ約2里,地勢は「三面ハ山野ヲ擁シ北一面平坦ニシテ赤江川ヲ帯フ,運輸便利,薪秣ハ給スヘシ」とあり,地味は「其田八分ハ真土,一分砂土,一分黒土,其質中ノ上,畑ハ七分真土,三分砂土,其質上ノ下,水利ハ便ナラズ時々旱害アリ其赤江川ニ瀕スルヲ以テ水害モ亦多シ」と見える。また税地は田107町余・畑77町余・宅地15町余・山林20町余・原野3町余などの計225町余,無税地は7反余,飛地として諸県郡有田村に田2町余があり,官有地は山林4町余,貢租は地租金1,518円余・雑税金138円余の計1,657円余,戸数235(うち神社1)・人数996(男513・女483),牛1・馬191,舟4,学校は本村の中央に人民共立小学校があり,生徒数は男86・女55。戸長役場は本村の西北隅にあった。民業は男女皆農業を営み,農間に工業に13戸が従事し,牛馬売買3戸がいた。物産は糶500~600石・煙草8,000斤・櫨子300貫・牛蒡1万束・胡蘿蔔1万束・蘿蔔8万本・柿子6万顆・瓦4万5,000枚。さらに道路は高岡往還が東の柏原村境から西の諸県郡下倉永村境まで通り,川は赤江川,用水は真田溝・黒田溝・洗田溝・才津溝・上小山溝・高野迫溝・松ケ迫溝・山下溝・上村溝が流れ,湖沼に黒田池・真田池・菰迫池・松ケ迫池・八幡迫池・宇戸良池が見える。明治17年の区町村会法改正の際の戸数235,また戸長役場は跡江・柏原・小松の3か村とともに跡江村戸長役場の管轄であった(郡行政/県古公文書)。同21年の戸数232・人口1,066,反別は田109町余・畑77町余・宅地16町余・池沼11町余・山林29町余・原野3町余・雑種地14町余の合計261町余,諸税および町村費の納入額は国税1,599円余・地方税602円余・町村費248円余・協議費156円余,村有財産は池沼10町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年生目村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460545 |