大湾村(近世)

王府時代~明治41年の村名。中頭【なかがみ】方読谷山【ゆんたんざ】間切のうち。「高究帳」では湾村と見え,高頭173石余うち田48石余(永代荒地28石余を含む)・畑125石余。村名を湾から大湾に改めたのは,浦添【うらそえ】間切の小湾と区別するための王府の指令によったとも考えられる。ペリーの応接に尽力し,島津のフランス船艦購入に活躍した牧志朝忠は,大湾村の脇地頭で大湾親雲上と称した。拝所に,マカアノ嶽・大湾ノロ火の神・マカ川・大湾之殿がある(由来記)。これらの祭祀には大湾ノロがあたり,同ノロの祭祀管掌は古堅・渡具知・伊良皆・比謝の各村にも及んだ。泉井に真嘉井がある(旧記)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。明治12年廃藩置県以後禄を失った士族らにより,大湾村でも牧原・比謝矼・大木の屋取が形成された。特に港町的性格のある比謝矼への移住民が多く,人口が激増した。戸数・人口は,明治13年84・442(男226・女216),同36年165・844(男421・女423)うち士族87・457。明治36年の民有地総反別194町余うち田6町余・畑112町余・宅地7町余・山林61町余・原野5町余(県史20)。同41年読谷山村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464049 |