久高島(近世)

王府時代~明治41年の村名。島尻方知念間切のうち。「高究帳」では畑のみ87石余。集落は島の南端にあり,南北に走る道路によって二分され,東部を外間【ほかま】村,西部を久高村と称した。「由来記」に両村の名が見える。「指南広義」「中山伝信録」では姑達佳山とも書かれ,「中山伝信録」には赤秔米・黄小米・海帯菜・竜蝦・五色魚・佳蘇魚を産するとある。「恵姓系統誌」によれば,康煕29年(1690)久高一門に恵姓が下賜され,以後同家は久高地頭職に任じられた。久高一門の女子は,古くは首里大あむしられ,のちには根神あむしられを世襲した(女官御双紙)。島には東方遥拝の拝所である伊敷泊【いしきどまり】,国王親拝のあったコバウノ森や中森ノ嶽がある(由来記)。国王親拝の費用は,知念間切を含む東【あがり】四間切はもとより,島尻方・中頭【なかがみ】方の他間切の百姓にまで賦課され,その負担が過大であるという向象賢(羽地朝秀)の進言があり(羽地仕置),康煕12年から代参となった(球陽尚貞王5年条)。雍正7年(1729)重出米は畑方を合わせて166石余のうち百姓地107石余(地方経済史料10)。しかし,土地がやせて狭く,貢租としての「はせを大縄并棕梠皮入切」が免除となり,また嘉慶19年(1814)からは夫役銭が免除された(同前)。住民は渡唐船・楷船・馬艦船や飛船などの水夫として働き,貢租が免除された(同前)。同治2年(1863)には,住民が薩摩に赴いて水術を教えている(球陽附巻尚泰王16年条)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。同36年外間・久高両村が合併し,1村となる。同38年知念尋常小学校久高分教場が久高尋常小学校(現久高小中学校)として独立。戸数・人口は,明治13年164・621(男282・女339),同36年137・602(男281・女321)。明治36年の民有地総反別97町余うち畑51町余・宅地3町余・原野41町余(県史20)。土地整理終了後も土地の共有制度は残され,私有地は島の祭祀を司る久高ノロ・外間ノロ・久高根人・外間根人の世襲する土地に限られた。百姓地は10組・150地に分けられ,16歳から50歳の男子に分配されるという地割制度が残された。同41年知念村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464276 |