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壺屋町(近代)


 大正3年~昭和55年の町名。はじめ那覇区,大正10年からは那覇市の町名。もとは那覇区泉崎の一部。大正期以後も上焼と荒焼が並行して行われ,上焼にはワンブー(丼)・アンダガーミ(油壺)・スリバチ・アラマカイ(碗)・チューカー(土瓶)・茶碗・カラカラ(酒器)・香炉など,荒焼にはサケガメ・水ガメ・厨子ガメなどのカメ類のほかシーサー(屋根獅子)などが主体である。いずれも壺屋独特なものであったが,日用品では本土産の陶磁器類に押されがちであった。地内には拝所が多く,第2次大戦前は多くの御願が行われた。ハチウクシーのお願は,旧暦正月15日以後の吉日を選んで,神人がビンズル嶽に集合し,東の井―トーヤー―大井―下の井―南の窯―番知井―西の宮の順でお願を行い,最後はビンズル嶽に帰ってお願を行った。旧暦12月の還願も同じコースで行われた。そのほか,旧暦3月3日の女だけのお願,旧暦6月1日の火松のお願,旧暦8月吉日の土供養のお願,旧暦9月9日の商売繁盛のお願などがある。沖縄戦では激戦地となり松林と墓地のある松尾山の丘の東にあった古くからのたたずまいも,完膚無きまでに破壊された。終戦直後,那覇市の大部分は未解放であったので,昭和20年11月10日,壺屋町の焼跡に136人が工作隊として派遣され,瓦工業の復興にあたった。その翌年1月3日には糸満【いとまん】地区管内の壺屋区として認可され,区役所も設立された。人口983人。昭和21年壺屋町・牧志町を中心とする地域が解放され,旧那覇市民が集まり,市の建設にあたった。戦後,陶業従事者以外の一般住民が多くなると,窯の煤煙が公害問題となり,業者は燃料を薪からガスに切り換えたが,従来の方式を守るために読谷【よみたん】村内に移る者もあった。世帯・人口は,昭和45年2,267・8,197,同52年2,142・7,071。同54年一部が壺屋1~2丁目・牧志3丁目となり,同55年残余は寄宮3丁目・三原1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464652