富着村(近世)

王府時代~明治41年の村名。はじめ中頭【なかがみ】方読谷山【ゆんたんざ】間切,康煕12年(1673)からは国頭【くにがみ】方恩納【おんな】間切のうち。「高究帳」では読谷山間切ふつき村と見え,高頭136石余うち田114石余・畑21石余。「絵図郷村帳」では読谷山間切のうちに,上ふづき村・下ふづき村の2か村に分かれて出ている。下ふづき村は,のち前兼久村となる。「由来記」で恩納間切富着村と見えるが,「中山伝信録」では富津喜と表記されている。カチンジョウにあった古島から,近世には海岸の兼久地に集落を移動していた。「高究帳」当時のふつき村は,まだ仲泊・前兼久・谷茶を行政上一村として取り扱っていた。そのことは,5・6月の両大祭などの村落祭祀がのちのちまで4か村合同で行われたことや,「由来記」で富着のアフシマノ嶽にも4か村の百姓が供え物をしていることなどからもうかがわれる。4か村での祭祀は,現在までも続いている。行政上も,この4か村は富着地頭の配下にあった。咸豊4年(1854)頃の諸上納物割付定では,恩納間切合計300人のうち富着村は20人である(地方経済史料9)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。戸数・人口は,明治13年38・224(男105・女119),同36年49・233(男106・女127)。明治36年の民有地総反別152町余うち田17町余・畑21町余・宅地2町余・原野109町余となっていて,原野が70%以上も占めていた(県史20)。同41年恩納村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7465004 |




