湧川村(近世)

王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方今帰仁【なきじん】間切のうち。乾隆元年(1736)蔡温の山林政策により,山間部にあった羽地間切呉我村・桃原【とうばる】村・我部【がぶ】村・松田村・振慶名【ぶりきな】村を移し,同3年跡地の山林監守を目的として湧川村を創建(球陽尚敬王24年条・26年条)。しかし,咸豊8年(1858)山林憔悴により,我部り山1万坪が,4年間開地作職御免となった(地方経済史料9)。集落の中核は,湧川の御嶽の南に開けたムラウチ(村内)である。この集落の南に,テテ(父の意か)と呼ばれる平地畑があり,御嶽の下にはムラガーと呼ばれる湧水があって,集落形成には絶好の地であった。ムラウチ東南の羽地内海に浮かぶやがんな島は,墓地になっていて,ムラウチとの位置関係が風水学の方位原則にのっとっている。このことからも,集落の形成が計画的なものであったことを思わせる。「由来記」に拝所などは見えないが,現在ウプユミの行事は,勢理客【せりきやく】ノロによって,上運天・運天とともに行われる。湧川村が,かつて天底【あめそこ】地内南西のアタガーという土地にあって,勢理客ノロに属していたという伝承を裏付けている。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。廃藩置県と前後して,禄を失った首里・那覇【なは】の士族の国頭地方への移住・帰農が多くなり,湧川村でも海岸にタクシ(沢岻),山地にヘーバル(南風原)・スイヌピジ(首里原)などの集落が形成された。またそれ以前にも住宅のあったシタカブ(下我部,シチャカブともいう)・カニク(兼久)の開発も,明治29年の奈良原県知事の杣山開墾政策の影響を受けて進展した。カーソーガーラが羽地内海に注ぐ小湾状の地に形成されたアタグァーという港からは,山原【やんばる】船によって薪・炭・塩などが出荷された。港周辺にはハーソー(川竿,カーソーともいう)の小市街地ができ,山地にはガジマンドー(我謝満堂)といった集落ができた。戸数・人口は,明治13年168・986(男503・女483),同36年247・1,626(男856・女770)うち士族100・819。明治36年の民有地総反別265町余うち田24町余・畑96町余・宅地16町余・塩田4町余・山林84町余・原野37町余で,他村に比べて山林と宅地が大きいのが特色である(県史20)。同41年今帰仁村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7465282 |




