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菅名荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。越後国蒲原郡のうち。荘域は村松町から五泉市のほぼ大部分を占める地域と推定される。皇室領。「吾妻鏡」文治2年3月12日条に「〈六条院領 預所隠岐判官代惟繁〉菅名庄」とある。この惟繁が「保元物語」に見える隠岐判官惟繁であるとすれば,平惟茂の流れを引く人物となる。揚北の荘園の多くが惟茂の流れを汲む城氏の開発であることと考え合わせると,当荘にも惟茂流平氏の関与が考えられる。六条院領は建長元年後堀河天皇の皇女室町院提子に伝えられ,正安4年の室町院御領目録に「越後国菅名庄」と見える(御料地志稿)。のち室町院領が大覚寺統と持明院統に折半された際には持明院統に伝えられた。「看聞御記」応永25年4月19日条には「室町院領越州梶庄・菅名庄」と記され,この時越後守護上杉房方と有縁の田村左京亮が当荘代官職を得ている。永正年間の蒲原郡白河荘等段銭帳(斎藤実寿所蔵文書/県史研究19)には当荘内として,丸田条・能代条・寺沢条・吉原条・安泉条・二柳村などの地名が見え,また菅名左京亮が680町余の所領を有していることが知られる。菅名氏は米府侍組由緒(米沢市立図書館所蔵文書)によれば,藤原氏の一門で佐藤姓を名乗り,頼朝の命を受けて寺泊に移り住んだ義忠の五男忠栄が当荘を与えられ,菅名城に在城したという。菅名氏の初見は嘉吉3年8月の旦那去渡状(米良文書/熊野那智大社文書1)の「越後国菅名大隅引旦那」である。その後天正3年2月の上杉家軍役帳(上杉家文書)では,鑓45・手明10・鉄砲5・大小旗5・馬上8の菅名与三や同心菅名綱輔の名が見える。当荘は揚北および会津との接点で,軍事上の要地でもあったため,神戸城・雷城・村松城・馬場館などをはじめとする城館がつくられ,たびたび戦場となった。建武3年には「菅名庄佐々河山并青橋条」(反町色部文書),「長井保青橋山」(鈴木中条文書)で合戦があり,また天文4年9月16日の本庄房長等七名連署状(本間奥羽古文書)には会津の芦名氏が当荘に出陣したことを記す。芦名氏は永禄7年にも当荘に攻め入り神洞城・雷城を攻撃したが,上杉輝虎の軍に撃退された(歴代古案/越佐史料)。さらに東蒲原郡三川村の平等寺薬師堂内陣正面右側上部嵌板墨書(平等寺薬師堂資料)によれば,天正6年御館の乱に際しても,栃尾の本庄秀綱,三条の神余親綱ら景虎方と結んだ芦名氏家臣小田切治部少輔が当荘を攻撃したが,雷城の攻防で敗退した。このほか当荘に関しては,建保6年南禅寺開山大明国師無関普門が当荘の正円寺で修行したといい(無関和尚塔銘/越佐史料),建長寺住持岳英の父徳叟は当荘に居住したという(補庵京華続集)。なお,前記史料に見える地名のほか,当荘内として安出条(上杉家文書)・石曽禰条(反町小田切文書)の地名も見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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