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志貴荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。三河国碧海・幡豆【はず】郡のうち。矢作川右岸の碧海台地一帯とその東部の平地を占め,安城・碧南・高浜3市と岡崎市の旧矢作町の一部にまたがる大荘園。近衛家領。保元元年7月日の藤原忠通書状案に「志貴〈参川国〉」とある(天理図書館所蔵文書/平遺2847)。「兵範記」仁安元年9月27日条によれば,当荘は長元元年~5年に三河守に就任した藤原保相が在任中に私領を立券して,荘務権のない本家職を藤原頼通に寄進して成立した(大成)。本家職は以後師実―師通―忠実―忠通を経て基実を始祖とする近衛家に伝領されるが,建長5年10月21日の近衛家所領目録によれば,遅くとも久寿2年までに当荘は上条・下条に二分されていた(近衛家文書/鎌遺7631)。同年12月に没した高陽院泰子(忠実女,鳥羽上皇后)所領中に「三河国志貴下」があり,泰子入内の長承2年以後に分割・処分され,没後に忠実のもとに戻された。この後,下条は伊賀・丹波の2人を経て皇后宮大進藤原成頼に伝えられ,仁安元年に平清盛の計らいで平信範の知行するところとなった。承安3年に信範は下条に臨時課役を賦課したので,下条住人20人が愁状を提出している(陽明文庫所蔵兵範記裏文書/平遺3636)。その後下条は近衛家に戻る。先の建長5年の目録には道経三男経嗣領とされており,信範からその女(基通妻,道経母)―道経―経嗣と伝領されている。正応3年時点の近衛家領の全貌が知られる宝帳布所進諸荘目録に「一段 志貴下」とある(近衛家文書/鎌遺17513)。志貴荘上条は建長5年目録では当主兼経領となっているが,忠実―播磨―知足院尼上(道経の妻藤原成定女か)から兼経に伝領されたものであった。上条は弘安3年11月28日の新陽明門院位子(兼経子基平女,亀山天皇妃)所領目録に見え(早稲田大学所蔵文書/同前14191),位子入内の際に基平から譲られたとみられるが,永仁4年に位子が没したあとの伝領は不明である。応安元年12月11日付後光厳天皇綸旨(柳原家記録/大日料6‐30)で「方々違乱」を止むべきとされた近衛道嗣領志貴荘の実態は明らかではない。これより先の観応2年近衛基嗣は禅僧虎関師錬に帰依して京都に楞伽寺を建て,7月19日下条を含む所領3か所を寄進した(海蔵院文書/同前6‐8)。以後三聖寺末楞伽寺領「志貴庄領家職」(同前文正元年8月9日付足利義政御教書/県史別巻),あるいは東福寺海蔵院領として義満・義教・義政の御判御教書を受けるが,文明12年が所領単位としての終見とみられる(海蔵院文書/大日料8‐12)。荘内には応永3年5月の吉良金蓮寺旧蔵大般若経巻112奥書に見える「志貴庄川島郷」(日本写経綜鑑)をはじめ,佐々木・西畠(端)・東端・米津・野寺・桜井・姫・安城・古井・鷹取などの郷があったことが,15~16世紀の真宗寺院の阿弥陀絵像裏書などから知られる(安城の地名)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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