物部郷(古代)

奈良期から見える郷名栗太【くりもと】郡のうち「和名抄」に「物部 毛乃倍」とある天平19年2月の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」に,法隆寺(大和国)の所有した薗地31町2反のうちとして「近江国栗太郡物部郷肆段」,また荘46所のうち「壱処近江国 在栗太郡物部郷」と見え,物部郷に法隆寺の薗地・荘があったことが知られる(寧遺362・363)「三代実録」元慶6年10月9日条には近江国正六位上物部布津神を従五位下に叙したことが見える現在の守山市勝部【かつべ】町の勝部神社はこれに由来するものか同社の祭神の1つに物部布津神があり,勝部町付近は戦前栗太【くりた】郡旧物部村に属した物部郷はこの旧物部村および現在の栗太郡栗東【りつとう】町綣【へそ】付近,即ち守山市よりの旧大宝村とを合わせた地域に比定されるなお文永頃の「興福寺人夫召注文」に「物部庄十人」とあり,鎌倉期には興福寺の所領となっていたらしい(鎌遺9372)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7616925 |