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奈良時代はドロドロの権力闘争時代


奈良時代はドロドロの権力闘争時代

◎かつての栄華を夢見た藤原氏

 710年、元明天皇は藤原京から平城京(奈良)に遷都した。以後、平安京に移るまでの約80年間を奈良時代と呼ぶ。この時代を特徴づけるものは権力者の頻繁な交代劇だ。

 遷都を推進したのは、藤原鎌足の息子・不比等。彼は養老律令の編纂にたずさわり、律令国家の構築に大きく貢献した偉大な政治家だった。その不比等が720年に死ぬと、藤原氏に対抗する皇族勢力から長屋王[ながやおう]が台頭、右大臣となり政権を握った。この長屋王は、天武天皇の孫である。

 一方、不比等の4子(武智麻呂[むちまろ]、房前[ふささき]、宇合[うまかい]、麻呂[まろ])は、往年の隆盛を回復すべく、光明子[こうみょうし](不比等の娘で、のちの光明皇后)を皇后にしようと画策する。が、皇族以外から皇后が誕生した前例はなく、長屋王は難色を示し、これを阻止しようとした。

 729年、「長屋王に謀反の企みあり」と密訴する者が出た。藤原4子は事実を問いたださんと、長屋王の屋敷を兵で包囲した。すべては藤原氏の策略だった。これまでと悟った長屋王は、無念の涙を飲んで妻子とともに自害して果てた。

 こうして光明子は念願の皇后(光明皇后)になり、藤原4子は実権を掌握したが、737年、4人とも天然痘に罹患、あっけなく死んでしまう。天然痘の猛威はすさまじく、朝廷の有力者のほとんどは死に絶えたと伝えられる。

◎何度も巻き返しをはかる藤原氏

 この政治的空白期に登場したのが皇族の橘諸兄[たちばなのもろえ]だった。けれど諸兄は、藤原武智麻呂の子・仲麻呂[なかまろ]が光明皇后の寵愛をうけて新興してくると、こらえきれずに756年、政界から退いた。これを不満とした諸兄の子・奈良麻呂は、政権奪回クーデターを計画するが、事前に発覚して捕縛された。

◎仲麻呂の時代も長くは続かない…

 以後、仲麻呂の全盛時代となる。孝謙[こうけん]女帝(光明皇后の娘)が退位したあと、仲麻呂は自分の意のままに動く淳仁[じゅんにん]天皇を即位させ、光明皇太后の後援のもと太政大臣になって権力をふるった。だが、光明皇太后が没し、孝謙上皇が道鏡[どうきょう]という僧を寵愛しはじめたことで、仲麻呂の人生は暗転する。上皇が仲麻呂の権力を削り、道鏡に与えようとしたため、764年に仲麻呂は挙兵に追いこまれ、自滅したのだ。

 やがて道鏡は太政大臣禅師となり、復位した孝謙上皇(称徳[しょうとく]天皇)のもとで仏教政治を展開、天皇に子がなかったため、みずから皇位につこうと画策する。だが、和気清麻呂[わけのきよまろ]に野望を阻止され、770年に天皇が崩御したあと、失脚して下野国薬師寺へ放逐された。

 有為転変としてまことに目まぐるしく、盛者必滅の論理が見事に凝縮された時代であった。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
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