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桓武天皇が平安京に遷都した本当のワケ


桓武天皇が平安京に遷都した本当のワケ

◎あっというまに都を移したワケ

 桓武天皇(光仁天皇のあと)は、7代74年にわたり帝都としてきた平城京を廃し、山背[やましろ]国長岡(京都府向日市など)の地に新京をつくって移座した。遷都はあまりに唐突だった。その意向を告げたのが784年5月で、同年11月には早くも桓武は長岡へ移っている。なにゆえ桓武天皇は、このような無謀な挙に出たのであろうか。理由はいくつか考えられる。

 ①称徳天皇の時代(2代前)、道鏡を筆頭とする仏僧勢力が政治に強く介入するようになったので、これを断ち切るため。②桓武天皇は、それまでの天武天皇系ではなく天智天皇系であったので、天武系に対抗できる都を欲した。③藤原氏一族などの在来貴族勢力をおさえ、天皇親政を実現しようとした。④蝦夷[えみし]征討を行なうにあたり、兵と物資の補給に便利な水陸要衝地に都を移した。

 785年9月23日、造京責任者・藤原種継[たねつぐ]が射殺された。犯人グループはすぐに検挙されたが、なんと、そのなかに早良[さわら]親王が混じっていた。親王は桓武天皇の実の弟で、皇太子の地位にあった。激怒した桓武は、親王を廃太子とし、淡路へ島流しにした。そして皇太子には新たに、息子の安殿[あて]皇子をすえた。

◎実弟・早良親王のたたりが…

 この処置に対して、無罪を主張していた早良親王は憤激し、一切の食を絶ち淡路へ向かう途中で衰弱死した。

 ――桓武天皇が異変に気づいたのは、親王の死後数年経ってからだった。788年、夫人の藤原旅子が病死し、翌年には実母の高野新笠[にいがさ]が、翌々年には皇后の藤原乙牟漏[おとむろ]、夫人の坂上春子が急逝した。

 巷では天然痘が猛威をふるい多数の死者が出、天候不順による凶作が続いていた。792年には長岡京を二度にわたって大洪水が襲い、さらに皇太子安殿皇子が、原因不明の病に侵されて危篤に陥った。凶変の連続に、さすがに不安を覚えた天皇は、卜筮(うらない)を行なわせた。結果は、早良親王のたたりと出た。驚いた天皇は、すぐさま淡路の親王の墓に勅使を派遣して墓地を清掃し、その霊をなぐさめた。が、天変地異はいっこうに収まらなかった。

◎再びあっというまに遷都

 794年、桓武天皇はわずか10年で長岡京を破棄し、平安京(京都)へ遷座する。実はこの遷都は、早良親王の怨霊から逃れるために挙行されたのである。うそのような話だが、当時の人々は真剣にたたりを信じていたのだ。

 しかし805年、「万民を苦しめる」という藤原緒継[おつぐ]の諌言により、桓武天皇は「造作[ぞうさ]」(平安京造営工事)と「軍事」(蝦夷征討)を中止し、翌年死没した。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
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