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(近世〜近代)江戸期〜現在の町名。明治初年から明治22年まで岡崎を冠称。江戸期は岡崎城下の1町。町並みは岡崎城外堀の東,伝馬町より南へ通じ,その南は唐沢町・伝馬役町。もとは城内にあり横町の南に通じていたが,正保4年に城外東の現在地に移った。町名は六地蔵尊が祀られていたことによる。現在地に移るとき六地蔵尊もともに移された。菅生(すごう)川の桜ノ馬場土場の荷揚げなどの権利は古くから当町が持っていた。享保15年の取決めによれば,干鰯・樽物・小間物類は川瀬の都合で近くの満性寺土場に荷揚げされても当町の人足が持ち送るとある(旧岡崎市史)。享和2年の書上では,町の長さ東側1町39間・西側1町25間,幅2間2尺,高57石余,家数52・人数156,職業は日雇稼25,農業5,酒屋・鍛冶屋各3,ほかに傘屋・髪結・木綿商売・煮売屋・指物屋など(同前)。「旧高旧領」では高69石余,うち伝馬所除地11石余。町内に明和7年に岡崎藩主本多家について来住した真宗大谷派浄専寺があり,同寺の開帳は「蓮如さん」として知られ,例年3月19〜25日に行われにぎわった。当町に芝居小屋があり,「三河聡視録」によれば,寛政年間の創立で大いに繁盛したが,天保13年幕府倹約令で一時衰微し,のちまた盛んになり,明治期以後は宝来座などが存続した。明治15年の戸数71・人口234,耕宅地1町余(岡崎市史)。同22年岡崎町,大正5年からは岡崎市に所属。同年の戸数144・人口452。同8年浄専寺は全焼し数年後新国道1号開通のため元能見町に移転した。昭和20年7月20日の空襲で町の大半は焼失したが復興した。同32年一部が康生通・伝馬通・唐沢町となり,伝馬町・祐金町の各一部を編入。同50年の世帯数86・人口264。
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