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鎌倉期から見える地名。那珂郡のうち。鎌倉前期には,宋人百堂の地に聖福寺が,またその隣に宋商謝国明によって同じく承天寺が建立された。こうした二大禅宗寺院が中核となって,博多禅といわれる禅宗文化が博多で栄えるが,それを支えたのが博多居住の宋商たちであった。建保6年9月21日,石清水八幡宮領筥崎宮留守行遍らが,大山寺の寄人で神人通事船頭であった宋人張光安を殺害した(仁和寺日次記/大宰府史7)。大山寺の本寺延暦寺は朝廷に対して博多津・筥崎を山門(延暦寺)領化することを求めた。翌承久元年11月には,肥前国神崎荘荘官らが張光安の死所博多管内とその所領を神崎荘領化することを求めていることからすると(石清水文書/同前),宋商張光安は大山寺に帰属した寄人であっただけでなく,神崎荘とも何らかの関係を有していたのである。また,大宰府を掌握し,日宋貿易の活発化を図る平氏の政権は,清盛の代に博多に袖の湊という港湾を造り,貿易港としたともいう(古代乃博多)。以上のように博多を中心に日宋貿易が活発化したことは,近年の博多の発掘によって,10世紀〜12世紀の中国陶磁が大量に出土したことからも裏付けられる(日本貿易陶磁史の研究)。文永の役の直前の文永9年に薩摩国御字人延時忠俊・比志島太郎代河田盛資らが「博多津番役」を勤めた(延時文書・比志島文書/大宰府史料8)。これは蒙古の襲来に備えて,鎌倉御家人らが博多湾沿岸の警備をしたもので,異国警固番役といわれる。文永11年に蒙古は日本遠征を決行した。同年10月20日に蒙古・高麗の連合軍数万は博多湾の西部沿岸から上陸し,博多に迫った(八幡愚童訓/同前)。日本軍は武藤景資をその日の大将として博多息浜に布陣し,蒙古軍と戦ったが,苦戦して大宰府の水城まで撤退した。ところが同夜に蒙古軍は船に引き上げ,全軍が撤退して,文永の役は終った。翌建治元年2月には,異国警固番役が九州各国に割りあてられ,博多湾沿岸の防備が強化された(比志島文書/同前)。翌年には高麗に進攻する計画が具体化し,4月中旬以前に九州の御家人領内の船を博多に廻漕するように鎌倉幕府は命じたが(野上文書/同前),結局この計画は実行されなかった。また同年3月には,高麗進攻要員以外の九州御家人には,博多津の「要害石築地」の築造が命じられた(深江文書/同前)。これが,博多湾沿岸の今津から香椎まで約20kmにわたって築かれた元寇防塁であり,同年8月には一応の完成をみた。この石築地を築造する石築地役は,地域別に九州各国に分担され,博多部は筑前・筑後両国が担当した。こうして,九州の御家人達は異国警固番役や石築地役を勤めるために頻繁に博多に往来するようになり,貿易都市としての博多に新たな性格が加わった。弘安4年にも蒙古軍は北部九州を襲い,博多湾から上陸しようとしたが,防備の強化によって,博多への上陸は阻止された。しかし,蒙古の襲来の脅威は以後も続き,異国警固番役は南北朝初期まで継続している。弘安の役後,鎌倉幕府は訴訟を簡略化して異国警固を強化するため,訴訟機関の整備を図った。弘安7年には鎮西特殊合議訴訟機関が,同9年には鎮西談議所が,永仁年間には鎮西探題が,いずれも博多に設置され,博多は大宰府に代って九州の政治の中心となった。鎮西探題の設置後,九州の御家人は京都の六波羅探題や鎌倉の幕府まで行かずに,博多で判決がうけられるようになった。永仁元年の平頼綱の乱に関連して,5月3日,関東から早馬が博多に到着し,九州各国の御家人が博多の北条兼時の下に馳せ参じた(広瀬文書/大宰府史料9)。元応2年12月23日夜,博多は炎上し,鎮西探題に参訴した御家人の訴訟関係文書を焼失した(河上神社文書/同前10)。随時は博多の櫛田宮を崇敬し,その再興を図っている(東海一漚集/五山文学新集4)。また,当時は元との貿易が盛んであったが,博多は貿易船の発着港として栄えた。韓国新安沖で発見された沈船も,中国の慶元路(寧波)から博多をめざして航海していたとされている。こうした日元貿易船には多くの禅僧も便乗し,日元間を往来し,文化交流をしている。正中元年,正中の変の直後の10月5日関東からの早馬が博多に到着したので,九州の御家人たちは博多の鎮西探題に馳せ参じた(深堀文書/大宰府史料10)。また元弘元年には元弘の変がおこるが,この時も多くの御家人が博多に馳せ参じた(新田神社文書/同前)。鎌倉末期の元弘3年3月13日,肥後の御家人菊池寂阿は,鎮西探題北条英時討伐のため博多で挙兵し,市中に放火,鎮西探題を攻めたが敗死し,一族の首は犬射馬場に掛けられた(博多日記/鎮西探題史料集下)。その後,少弐氏・大友氏をはじめ九州の御家人たちの多くが反鎮西探題方となったため,同年5月25日,鎮西探題は滅亡した(同前)。この戦乱で博多の街は焼失し,暦応3年においてさえ博多の人家は極めて少なかった(祇園執行日記紙背文書/南北朝遺1481)。元弘3年8月28日,豊後の大友貞宗は建武政権から恩賞として博多の息浜を与えられた(大友文書/大分県史料26)。ところが,貞和2年8月11日,室町幕府は鎮西管領在所として博多を指定した(青方文書)。大友氏領博多息浜は没収され,大友氏には替地が与えられた。貞和6年3月,博多息浜津に日本の禅僧18人と中国の船主11人を乗せた中国船1艘が着岸した(園太暦所収文書/南北朝遺2716)。息浜は大陸貿易の拠点ともなったのである。こうした日元貿易の展開によって,博多には町衆が形成されてくる。康永3年8月には,博多の「接待講衆」27人が聖福寺西門のかたわらに板碑を立てているし,翌4年6月には30数名の博多町衆と考えられる人々が大乗寺付近に板碑を建立した(福岡市の文化財)。また,正平21年3月には博多講衆が安芸の厳島神社に灯炉を寄進している(厳島神社灯爐/大日料6‐27)。このほか,明や高麗の使節も博多を訪れ,武将や僧侶らと交流している。応安年間に日本を訪れた明使は,博多の息浜にあった妙楽寺に滞在したが,博多を「石城」と呼び,中国と近く,船舶が出入りし,商人が集まる「関西之要津」であると述べている(雲門一曲/大日料6‐38)。今川了俊のあとをうけて九州探題となった渋川氏は博多を本拠地として積極的に朝鮮通交を行った。その家臣板倉満景は「石城管事」すなわち博多代官として博多を治め,かつ活発に朝鮮貿易を行った(李朝実録)。応永26年の応永の外寇後,室町幕府は博多妙楽寺の僧無涯亮倪を正使,博多商人平方吉久を副使として朝鮮に派遣した。翌年,朝鮮は回礼使として宋希璟を日本に派遣した(老松堂日本行録)。応永27年3月4日,宋希璟の一行は博多に到着し,九州探題渋川氏の厚遇を受けた。渋川氏は博多市中の道路を清掃させた。博多の岐路にはそれまで門がなく,賊の襲撃のおそれがあったので渋川氏はこの時,岐路に門を作らせ,夜はこれを閉めることにした(同前)。室町期には博多は日朝貿易と日明貿易で栄えた。日朝貿易で活躍した博多商人には宗金・道安・宗家茂・信盈・佐藤信重らがおり(海東諸国紀),日明貿易で活躍した商人には,奥堂右馬大夫・奥堂五郎次郎・澳浜新左衛門・綱庭太郎右衛門らがいる(戊子入明記/日明勘合貿易史料)。応永末年の九州探題渋川氏の滅亡後,大内氏・少弐氏・宗氏・大友氏などの守護大名が博多をめぐって争ったが,最終的に大内氏が博多を手中に収めた。一方大友氏も旧領博多息浜を回復し,田原貞成を代官として朝鮮と活発に貿易を行った(李朝実録・海東諸国紀)。「海東諸国紀」には,当時の博多について人家は1万余戸あり,住民の多くは商売を職業としている。博多は琉球船や南蛮船(南海船)が集まる港であり,朝鮮に通交する者も九州内では最も多いと記されている。文明12年に博多を訪れた連歌師宗祇も,「前に入り海はるかにして,志賀の島をみわたして,沖には大船おほくかゝれり。もろこし人もや乗りけんと見ゆ。左には夫となき山どもかさなり,右は箱崎の松原遠くつらなり,仙閣僧坊数もしらず,人民の上下門をならべ軒をあらそいて,その境四方に広し」と描写している(筑紫道記/群書18)。応仁・文明の乱がおこると,文明元年7月少弐頼忠は筑前を回復し,自らは大宰府に居住し,対馬の宗貞国に博多を支配させた。貞国は住吉に留まり,家臣の宗直家を博多代官として博多においた(海東諸国紀)。文明10年には大内政弘が豊前・筑前を回復した。同年10月には博多に滞在し,少弐氏残党の追討を行う一方で,九州各国の国人・寺社・博多の町衆と交流した(正任記/大日料8‐10)。政弘の博多滞在中,博多代官飯田氏の家臣で博多下代官であった山鹿氏と筑前守護代であった陶氏の家臣との間で相論が発生した(同前)。博多支配の主導権をめぐる博多代官と筑前守護代の対立がその背景にあったと考えられる。また同年10月14日の夜半,博多興浜(息浜)が騒然となり,博多の町衆たちが妙楽寺を破却せんとしたため,大内氏は軍勢を派遣してこれを鎮めた(同前)。本来大友氏領である息浜に大内氏が軍勢を派遣していることや,同11年に対馬商船の博多息浜入船公事(入港税)を筑前守護代陶弘護の家臣が免除していることから(宗家御判物写/長崎県史史料編1),当時息浜は大内氏によって押領されていたと考えられる。以後,博多息浜をめぐる守護大内氏と領主大友氏との争いが続いた。享禄2年頃には大友氏がこれを回復していたが(大永享禄之比御状并書状之跡付/対外関係と文化交流),天文初年の両氏の戦闘によって再び大内氏がこれを押領した。天文7年の両者の和睦後も大内氏が返付しなかったため,天文11年大友氏はこれを室町幕府に訴えた(大友家文書録/大分県史料32)。このように大内氏が大友氏領博多息浜に執着したのは,当時大内氏が日明貿易の主導権をめぐって細川氏と争い,天文年間にはついに独占するに至ったという事情がある。大内氏の日明貿易の拠点は博多と博多商人であり,博多の海岸部に位置して貿易に有利な息浜に固執したのである。天文年間の遣明船には,神屋主計・同太郎左衛門といった神屋一族のほか,河上杢左衛門・小田藤左衛門尉などの博多商人が船頭として乗り組んでいる(策彦入明記/策彦入明記の研究上)。また博多商人神屋寿禎は大陸から新しい銀の精練技術を輸入し,石見銀山を開発したという(日本鉱山史の研究)。天文20年の大内義隆の滅亡後,大友氏が博多に代官をおいて支配した。「下全域において,当時博多の市以上に高級かつ裕福なところはどこにもなかった。というのは(市民は)すべて商人から構成される制度となっていたからで,それは万事において堺の市を模倣したものであった」とキリスト教宣教師が述べているように(フロイス日本史6),16世紀後半の博多は自治都市化していた。従来の旧博多部と息浜という南北の二重構造が,「東分」「西分」という東西の町の結合に変化するのもこのころである。大友宗麟はキリスト教に理解を示し,永禄元年イエズス会に博多内の海岸部の土地を教会建設用地として寄進した(1559年11月1日ガゴ書簡/通信上)。イエズス会宣教師はこの土地から,「地代および税金」のほかに毎年100クルザード以上の入港税を徴収した(1562年12月10日ガゴ書簡/同前)。しかし,博多には伝統的な宗教文化が根づいていたため,キリスト教の布教は容易ではなかった(1562年10月25日ダルメイダ書簡/同前)。戦国期には各地で戦闘が恒常化し,博多は何度も戦火を受け,街は大きな被害を被った。永禄2年には国人筑紫氏によって,天正6年には肥前の竜造寺氏によって,天正14年には薩摩の島津氏によって街は焼かれ,壊滅的な打撃をうけたのである(以上,博多史料5・6・7)。天正15年,島津氏を降して筑前に戻った豊臣秀吉は,6月10日「フスタ」という南蛮船に乗り,廃墟となった博多を検分した(宗湛日記/博多史料8)。翌11日に博多の町の再興図が画かれ,長束正家・山崎片家・滝川三郎兵衛・小西行長らを奉行として博多の再興が行われた(同前)。これが現在の博多の町割の原型となった太閤町割である。秀吉はこれより先の同年4月,各地に避難していた博多町人に帰還するように命じ(改正原田記附録/博多史料8),6月には,地子や諸役の免除といった特権を博多町人に認めた(博多記/天満宮史料8)。秀吉は博多を直轄化し,朝鮮出兵の兵站基地とした。博多の再興や兵站基地化に利用されたのが,豪商神屋宗湛・島井宗室の両名である。朝鮮出兵に際しては,博多の蔵に九州各地の米が廻漕され,諸大名に配分された。2度にわたる朝鮮出兵も,慶長3年8月の秀吉の死によって終止符が打たれ,兵站基地としての博多の役割も終りを告げた。
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