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平安期〜室町期に見える村名。伊都【いと】郡官省符荘上方のうち。長社(杜)・那古曽・長古曽・長栖とも書く。永承4年12月28日の太政官符案(高野山文書/大日古1-7)に「長杜村見作田拾陸町壱段弐百捌拾歩」とあるのが初見。この時,高野山は紀伊国内の伊都・那賀・名草【なぐさ】・牟婁【むろ】の各郡に散在する領田(水田41町1反150歩,陸田7町187歩)を返上する代償として,当村を含む「寺家政所前田并荒野」が不輸租田として認められている。当村の見作田は16町1反280歩,条里の位置として「拾参図参里」と記されている。下って保安元年11月17日の女坂上氏田地売券(同前1‐3)では「名古曽村〈十三図三里廿五坪西副〉」の田地1反が直八丈絹3疋半で勝永宗に売却されており,条里が一致することから「長杜村」と当村が同一の地名であったことが確認できる。下って寿永元年6月15日の僧円慶田地充行状(早稲田大学荻野研究室所蔵文書/平遺補408)には「一,長古曽村十四図三里十一坪北副壱段参拾歩,在字久原」とあり,当村などの田地2反が万勝に処分されている。元暦2年8月4日の名古曽田井字寺田田地公験(高野山文書/大日古1‐3)には「那古曽田井字寺田壱段小」と見える。同地については,建久4年6月16日の僧良印等田地売券(同前)で,「那古曽田井字寺田」の田地1反150歩が直米12石で定光に売却されている。下って嘉禄元年11月23日の僧増聞田地売券(同前)で同じく水田1反150歩が直米9石で宝珍房寺主に売却された。そして同地は仁治2年2月18日宝珍から直銭3貫800文で恵眼房に売却された(同前)。下って嘉暦3年10月4日の大法師祐尊御影堂陀羅尼田寄進状(同前1‐2)で同地の水田1反150歩は御影堂に寄進された。建久3年7月27日の本家下文案(同前1-4)および同年月日の東寺長者別当施行状案(同前)などによれば,「河北方」の「長栖・大野・山田・村主」などが役夫工米を免除され,また元久元年7月日の金剛峯寺所司等申文(同前1-1)でも造内裏役を先例に任せて免除するよう申請している。本文書中に引用された保元年間の宣旨案には,国司の主張として「於長栖・大野三百五十余町,楫里・大谷百四十余町者本自免除畢」と記されている。貞応元年12月6日の関東下知状案(御影堂文書/清水町誌史料編)には「長栖村〈春日部入道実高〉」とあり,承久の乱後新補地頭として任ぜられた当村などの地頭が,「所当仏聖人供」が欠乏したとして停止されている。嘉禎2年7月日の僧澄源田地去状(高野山文書/大日古1-6)によれば,「高野政所河北那古(曽脱)田井卅三坪池東」の田地1反が弁位房に去り渡されており,裏書に「寄進高野御影堂」と記されている。また同3年3月27日の文屋太子田地売券(同前1-3)では「名古曽字角合田」の田地1反が直米5石5斗で楽一房に売却されている。また同4年2月日の大法師祐盛田地去状(同前)には「東那古曽卅三坪」とあり,同地の田地1反が浄蓮房に負物代として渡されている。またこの田地1反は建久2年11月15日浄蓮房から直米5石で経南房に売却されており,裏書に「寄進高野御影堂了」とある(同前1-6)。弘安5年12月4日の僧全力田地宛行状(同前1-2)には「那古曽田井戸内東那古曽」と見え,当村の字の中に「東那古曽」が存在していたことが知られ,同地内の水田1反が尊教房に宛行われている。なお「田井」の中の地名として正元元年7月27日の正珍福円連署四十八巻講料田寄進状(金剛峯寺文書/かつらぎ町史)には「那古曽田井字大ミナクチ」,2通の弘安2年3月10日の太郎田地宛行状(高野山文書/大日古1-3)には「名古曽田井字角合」,同6年10月日の静能未処分田畠等注文案(正智院文書/かつらぎ町史)には「那古曽田井池」などが見えている。このうち「大ミナクチ」は上述の永承4年の太政官符案に見える官省符荘の四至「東限大呇(水口カ)東谷」に比定され,古くは現在の吉原川付近まで那古曽に含まれていたものと考えられる。康元2年3月20日の僧随円田地売券(高野山文書/大日古1-3)では「那古曽村橘本」の水田1反が乃米10石で幸千房に売却されている。またその四至に「限西大道」とあり,古代の官道南海道の名残が認められよう。この「橘本」については,弘安3年正月25日の入寺真篋田地売券(同前1-4)で,同地の田地1反が直米6石5斗で円道房に売却され,同3年12月21日の阿闍梨栄尊御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)で,御影堂に寄進されている。そのほか当村内の字名としては,弘安2年7月21日の山籠覚朝御影堂灯炉料畠寄進状(同前1-3)に「那古曽村字丹生熊法師門」,正応3年12月21日の尼戒蓮御影堂灯油畠寄進状(同前1-2)に「那古曽村字中屋垣内」,嘉元4年5月日の御影堂陀羅尼田不見帳面坪々注文(同前1-4)の80臈に「那古曽野中」,延慶2年3月2日の阿闍梨頼宗御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)に「那古曽村字高知垣内」,正和2年5月21日の僧長実御影堂陀羅尼田寄進状(同前)に「那古曽村津波井」などが見える。南北朝期の延元2年9月3日の官省符在家支配帳(同前1-7)には,長勝房の入寺免の在家1宇の注に「那古曽京信」とあるのをはじめとして,当村内に3宇の在家があったことがわかる。また貞和4年5月21日の僧定忍御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)では「長栖上端」の水田180歩が,正平9年2月18日の阿闍梨祐成御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-3)では「那古曽字角合」の田地1反が御影堂に寄進されている。なお,明徳2年の年紀のある諸供領臈次番付書(同前1-8)の78・126・149・173・190・197・353・367・408の各臈に当村名が見える。応永3年5月日の官省符上方惣田数分米目録(同前1-7)および同年月日の官省符上方惣畠数分麦目録(同前)によれば,当村は田数33町2反330歩(分米109石6斗3升6合4夕),畠数5町9反310歩(分麦8石3斗2升2合2夕),在家3宇であった。「勧学院文書」には同じころのものと推定される名古曽村田帳中書・名古曽村在家帳が残っている(かつらぎ町史)。その中に地主として見える西光寺は当村にある亀岡氏の持坊で,天文21年正月18日に西光寺法度条々が出されている。また同じころの官省符上方分田支配注文(高野山文書/大日古1-7)によれば,当村には「御社仏性」2口のうち1口,「仁王会油田一反七十歩」「福勝寺仏性田一反八十歩」「所司三十口内」の高坊3口,田所・亀岡・岡・幸徳丸・大野・小田・埴坂七郎・曽和各1口,「庄官分」の惣執行1口,田所3口,「承仕供」18口のうち2口などが分田されていた。当村を本貫とする荘官層には,上述の惣執行高坊氏と政所所司の塙(埴)坂氏などがいた。高坊氏は治承2年3月1日の僧仁曜書状案(同前1-2)に惣執行御房と見えるのが初見であり塙(埴)坂氏は高野山検校帳(同前1-7)の記事中の康平6年10月25日に見えるのが初見である。高坊氏は当村に居館を構えており,江戸期の延宝5年の禿組指出帳控(大畑家文書)には「東西五十間,南北四十間」の古土居を記している。なお,同帳控には高坊氏は高尾氏と誤伝されており,現在高尾城が通称となっている。現在居館跡には「城之越」「的場」「高尾」という小字名が残る。寛正4年の畠山政長と義就の抗争の際には,隅田一族の葛原氏が高坊氏の居館と考えられる「高坊要害」に集結している(土屋家文書/橋本市史上)。また塙坂氏の居館も当村の北西にあり,小田氏の居館は高坊氏の居館の南東にあった(大畑家文書)。なお,塙坂氏・小田氏は近世初頭に隅田荘へ移住して近世の隅田一族となっている(南紀士姓旧事記)。
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