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江戸期の城下町名。足柄下郡のうち。天正18年大久保氏,元和5年阿部氏,寛永9年稲葉氏,貞享3年大久保氏と譜代大名が入封した小田原藩の城下町。慶長6年東海道に伝馬制度が設けられたことにより,その主要宿駅としての要素も加わった。城下町としての基礎は小田原北条氏の時代に築かれ,稲葉氏入封に伴い公儀普請による小田原城修築と城下町の整備が図られた。寛永10年以降頃に小田原城大手口が南から東へ移動され,そのため城下の南を東西に走る東海道は大手口から東へ延びる大路と接続するように北へ付け替えられた。この付替えにより旧東海道筋東口にあった新宿町は,新東海道筋の新宿町と旧東海道筋の古新宿町に分かれた。また中世末期以来の一丁田小笠原小路は武家屋敷と町人屋敷が混在していたが,両者の分離が行われ,武家町の唐人町と町人町の一町田町となった。このように町人地の画定と町割りは稲葉氏藩主時代に完成,通り町9町と脇町10町の計19町となった。通り町は東海道沿い東西に形成され,西から山角町・筋違橋町・欄干橋町・中宿町・本町・宮前町・高梨町・万町・新宿町と並ぶ。新宿町から江戸口(山王口)を経て山王原村,山角町から上方口(板橋口)を経て板橋村となる。脇町10町は2つに分かれる。1つは,東海道南側,通り町9町と並行して西から花畑町・代官町・千度小路・古新宿町と4町が連なる。残り6町は高梨町から北上する矢倉沢往還沿い南北に,南から青物町・一町田町・台宿町・大工町・須藤町・竹花町と並ぶ。竹花町は城下北端にあたり,井細田口を経て井細田村となる。概括的に見れば,通り町は東海道筋として旅籠を中心に料理屋・土産物店などが連なり,脇町には城下町商人・職人・魚商人・漁師などが多く住んだ。なお竹花町・新宿町・一町田町には郷宿があり,訴訟など藩領内村々から藩庁へ出頭するに際し利用された。武家屋敷はほぼ4地区に分けられる。1つは家老クラスの屋敷地が配された三の丸郭内。2つめはこの三の丸に接する地で,大手門や北の幸田門外に広がる。3つめは,城下北端竹花町辺りの東方から南へ,東海道沿い万町北側に達する一帯。4つめは城下の南西部,山角町・筋違橋町に接して通り町の町並み裏手に広がる。侍屋敷は街道や大路に面しては配置されていないが,足軽組屋敷は東の江戸口,西の上方口,北の井細田口に街道に面して配置された。転封に伴う稲葉氏から大久保氏への貞享3年引送書によれば,侍屋敷213軒・小役人家114軒,ほかに組屋敷16組など(岩瀬家文書/県史資4)。これらの大外郭に谷津村を加えた範囲が小田原府内にあたり,「元禄郷帳」570石余,「天保郷帳」884石余。「旧高旧領」では府内谷津村223石余のほか,山角町・竹花町・大工町などの持添新田の高を分離,小田原府内は427石余。「旧高旧領」に見える各町持添新田は,府内堤新田39石余,府内池戸新田64石余,府内新田2石余,府内小岸52石余,府内渋取31石余,府内竹花42石余。小田原宿とはこの小田原府内のうち町人町19町を指す。本陣は本町2・宮前町1・欄干橋町1の計4。脇本陣は本町2・宮前町1・中宿町1の計4。人馬継問屋場は高梨町と中宿町にあり,毎月10日交代で勤めた。また本町には御用物継所があり,寛永10年から継飛脚給米86石余を与えられていた。江戸から和歌山への急便に備えて7里ごとに紀伊徳川氏が設置した紀伊殿継所(七里役所)が万町にある。先の貞享3年引送書による宿内の家数1,111軒,このうち伝馬100匹役を負担するのは179軒,本人足100人役を負担するのは571軒(岩瀬家文書/県史資4)。貞享3年小田原町明細書上によれば,本人足役を負担するのは山角町・筋違橋町・茶畑町・代官町・千度小路・万町・新宿町・青物町・一町田町・台宿町・須藤町の616軒,本人足役の不足を補充する地人足役は一町田町・大工町・竹花町の76軒が負担とある(久保田家文書/県史資9)。なお伝馬役は初め36匹であったが,同役を負担するのは欄干橋町・中宿町・本町・宮前町・高梨町,のちに筋違橋町・万町が加わった。東海道宿村大概帳による天保14年改の宿内人別5,404人・家数1,542軒。安政元年には人数5,897(人馬持立役家書上/片岡家文書)。町政組織は3名の町年寄を筆頭に以下,2〜3名の宿老,のち宿老並を新設,各1名の町名主,各1〜2名の組頭とおり,上意下達により家持ち・店借人などを掌握した。宿機能に関しては2名の問屋役と2名の人足肝煎が置かれていた。ほかに代官町29軒・千度小路33軒・中宿町1軒・宮前町1軒・新宿町1軒・万町10軒の計75軒の魚商からなる魚座,千度小路24軒・古新宿町73軒の計97軒の漁師からなる海士方はともに名主を別に置いていた(貞享3年小田原町明細書上/県史資9)。魚座役は上使・目付・公家衆およびオランダ人などの使節が小田原宿泊の際に台所人足と夜番を出し,宮前門前の銀杏の実落し人足と魚御用を勤め,海士方役は藩主御手船の水夫役のほか公用人足の加勢を勤めた。町人は宿場に認められた1万坪の免除地以外の地子銭を上納,城下出入口に置かれた番所,用水,時の鐘撞堂の掃除と普請に人足役を勤めた。また本人足役負担者は,用水の水門番,堰人足,19町の総鎮守松原明神社の普請人足,同社祭礼のお供人足,蔵米船積の加勢人足,町奉行役屋敷の普請人足の負担を課せられ,地人足役負担者は蔵米船積の人足,番所の維持,お茶壺城内泊りの際の夜番,西光院門前の火の用心,町奉行役屋敷・牢屋の普請人足の負担を課せられていた。一方職人は貞享3年に32業種249名いた。その内訳は大工64・鍛冶屋30・紺屋21・木挽20・桶屋15・畳屋14・樽物屋14・塗屋12・仕立屋7・鞘師5・食事屋5・研屋4・板屋葺4・金具屋3・渋付屋3・鋳物師3・印付屋(両替)3・指物師3・仏師2・乗物屋2・左官2・筆屋2・籠作2・綿打1・柄巻屋1・合羽屋1・葺萱屋1・絵師1・衣屋1・蒔絵師1・石船切1・飾屋1(貞享3年小田原町明細書上/県史資9)。彼らは焼印札交付者以外はその営業を禁止されており,棟梁に率いられて国役の御城御用を勤め,また文政2年には日当2日分の運上を納めていた(ぐみ沢村の名主日記)。城下の商人は町人を顧客とすると同時に藩領内村々を商圏としていたため,在郷商人の扱い量に厳しい規制を加えて彼らの反発を招いた。その結果,江戸・十日市場・三浦三崎などの領外商人からの仕入れ量が増加,城下の商人は天明6年・天保元年に在郷の小商人を藩庁へ訴えている。また公用人馬の提供は町人町19か町の人馬役のみでは負担しきれず,早くから周辺農村へ助馬役が賦課されたが,この負担をめぐる宿と助郷各村の紛争は頻発した。定助郷と大助郷に整備された元禄7年では,助郷村数は足柄下郡50か村・足柄上郡28か村・淘綾【ゆるき】郡1か村の計79か村,勤高合計3万2,955石(元禄7年小田原宿助郷帳/県史資9)。高100石につき人足2人・馬2匹に定められた。特に幕末における公用人馬の激増は宿と周辺農村疲弊の一原因となったが,宿の財政自体は江戸初期から苦しく,宿駅制度が整備された寛永年間以降は幕府や小田原藩から米・金の助成と貸付により切り抜けていた。寛文9年には従来の1万坪の地子銭免除に加え,足柄上郡の赤田村・鴨沢村と同郡生沢村・同郡井口村・同郡高尾村・大住【おおすみ】郡入部村・淘綾郡寺坂村の各一部を伝馬替地村と定め,計125石余を各町の伝馬役・人足役負担の家へ支給する手当をした。また享和2年には財政再建策の1つとして飯盛女を置くことが宿から出願されたが,300両の無利息貸付を引替えに藩は許可せず,文化3年にいたって旅人用を名目に許可に転じた。しかし安政6年の調査によると,当時あった88軒の旅籠中幕府公用者を支障なく収容できるのは18,9軒,また高梨町の町総体および個人の借財合計は893両,千度小路では合計額1,156両に上る状況で,新たに財政再建仕法を実施せざるをえなかった(明治小田原町誌)。同様に天保14年には欄干橋町の旅籠屋竹本屋をはじめとする町人24名が報徳仕法を実施している。明治4年小田原県から足柄県を経て,同9年神奈川県に所属。この間,明治4年武家地をも合わせて小田原駅と称し,同8年武家町・町人町を小田原駅を冠称する新玉町・万年町・幸町・緑町・十字町の5か町に編成した。同22年小田原町となる。
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