日本史の雑学事典 第2章 事件の巻 安土桃山時代 230 荒木村重の謀反?【あらきむらしげのむほん】 ■5 荒木村重の謀反②…家族や家臣を見殺しにして平然と逃亡 謀反を起こした荒木村重は、大軍に包囲されながらも、有岡城で1年近く持ちこたえた。この城が町地を郭内に取り入れた大城郭だったことに加え、当初は、毛利氏や本願寺の兵糧援助があったためである。だが、織田軍に次々と援助ルートを遮断され、次第に城内の食糧も乏しくなり、なおかつ、いつまでたっても毛利軍が援来しないことで、城方の志気は著しく低下していった。 こういう苦境に陥った1579年の9月2日、村重は味方の運命に絶望して、あろうことか城を捨てて逃亡した。城兵が逃げたのではない。城主自らが部下を捨てて遁走したのだ。しかも、妻子・重臣にまったく内密にである。ただ、大切な茶道具と愛妾を連れていくのは忘れなかったらしい。外道の振る舞いだと言ってよいだろう。 村重はこっそり城を出たあと、息子・村安(村次とも言われている)の拠る尼崎城へ入った。この事態を察知した織田軍は、有岡城への総攻撃を開始した。城主がいない城はもろかった。城内に内応者が現れて城門を開いたので、郭内に織田軍が殺到した。 敵兵の乱入に、城内の人々はパニックに陥り、泣き叫びながら逃げまどった。そういった老若男女を、織田の兵は容赦なく斬り殺していった。また、各所に放火し、煙や熱さで飛び出してくる者たちを待ち構えては惨殺した。降伏を願い出る者もいたが、信長はこれを許さず、容赦なく首を刎ねた。 こうして次々と郭が陥落し、ついに本丸も織田軍の手に落ちることになったのだった。 本丸には、荒木一族や重臣、そしてその家族らが籠もっていた。信長は、荒木家の重臣らに対し、「もし村重が尼崎城を差し出すのなら、有岡城本丸の人質の命は全員助けてやろう」という交換条件を提示した。 城方は喜んでその条件を飲み、荒木久左衛門をはじめとする重臣ら300名が尼崎へ出向いて、城下で必死の交渉を始めたのだった。 久左衛門は、城兵を通じて村重の妻・たしの歌を主君・村重のもとへ送り、信長の要求を受け入れるよう哀願した。「霜がれに 残りて我は 八重むぐら なにはのうらの そこのみくづに」(この霜枯れのなかに取り残されて、八重むぐら〈生い茂る雑草〉のように荒れ果てた城にいるくらいなら、いっそ難波の裏の水屑になってしまいたい) たしの歌には、自分を残して逃げた夫・村重に対する恨み節と、強烈な想いが込められていた。だが、これで村重の心が動くことはなかった。返歌を返したものの、とうとう最後まで久左衛門らを城内に入れず、話し合いに応じようとはしなかった。 重臣たちは交渉が絶望的になった段階で、このうえは有岡へ戻っても織田軍に殺されるだけだと悲観し、何と全員が己の命欲しさに、その場から逃げ去ってしまったのである。 村重が村重なら、家臣も家臣である。 かわいそうなのは、本丸にいる人質たちだった。彼らは尼崎からの朗報を、いまかいまかと首を長くして待っていた。が、耳に入ってきたのは、村重の拒絶と重臣たちの遁走だった。 親族に見捨てられた人質の悲しむさまは、たとえようもなく哀れで悲惨だった。さすがの織田軍もこの様子をみて不憫に思い、涙ぐんだとも伝えられる。人質のリーダー格であった池田和泉守は、あまりのショックに、鉄砲をこめかみに当て、頭を打ち砕いて自殺したと伝えられる。 日本実業出版「日本史の雑学事典」JLogosID : 14625018