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富士山
【ふじさん】


不二山・不尽山・布士山・福慈山とも書く。山梨・静岡両県にまたがる日本一の高峰。剣ケ峰が最高地点で,標高3,775.6m。コニーデ型の火山で,山頂部に火口をもつ。火口の外周には富士八峰と呼ばれる高所があり,大内院(火口底)との比高は約240m。山容は海抜2,500m以高はほぼ円錐形であるが,山腹には大室山・宝永山など多くの側火山が,北北西から南南東方向に集中するため,下方では楕円形となる。当山はその地質構造や活動史から小御岳・古富士・新富士の3火山に分けられる。小御岳は,愛鷹山・箱根外輪山などと前後して噴出した火山で,現在の富士山有料道路(富士スバルライン)五合目終点の小御岳神社付近に山頂があった。古富士火山は洪積世末期から活動し,山麓に集塊質泥流を流したり,関東南部にまで堆積する火山砂礫と火山灰を噴出した。この火山は新富士火山とほぼ同じ位置に中心をもち,最盛時には3,000m程度まで成長したとされる。新富士火山は活動に休止期を含み,かつ迸出的である。最初の噴出は新富士火山の旧期溶岩類を流した活動で,西斜面に多くみられるが,北麓では南都留(みなみつる)郡鳴沢村から河口湖畔,また梨ケ原の下層にみられる。猿橋溶岩流も同様の溶岩である。旧期溶岩の上を中期溶岩が覆い,その末端は北麓では都留市十日市場にまで達している。さらにその上を側火山の噴出物である新期溶岩や火山砂礫が重なって成層火山の裾野が形成されている。富士北麓では,この新期溶岩をまるび(丸尾)と呼び,青木ケ原丸尾・剣丸尾・鷹丸尾・雁丸尾などが北麓を覆い富士五湖の湖畔まで達し,剣丸尾の末端は暮地の坂をなしている。歴史時代に入ってからも活動を継続し,10数回の噴火を繰り返した。そのうち延暦19年・貞観6年・宝永4年の活動を三大噴火と呼ぶ。古代の最も大きな噴火は「三代実録」に記す貞観6年5月25日寄生火山長尾山の噴火で,山麓から青木ケ原溶岩が流れ出し,剗の海(せのうみ)に流入して,これを西湖と精進(しようじ)湖に分断した。宝永4年の噴火では山腹に宝永山を生じ,噴火口から多量の火山灰・火山弾を放出して,東麓一帯から江戸にまで火山灰を降らせた。この新富士と御坂(みさか)山地,関東山地との間に環状の湖が生じ,猿橋溶岩流によって東の宇津湖と西の剗の海とに分かれた。宇津湖の一部は桂川の鐘ケ淵付近が浸食されることにより水が流出し,忍野(おしの)平野となり,湧水口である忍野八海が残った。鷹丸尾でせき止められて山中湖ができ,剣丸尾でせき止められて河口湖ができた。剗の海では,まず本栖湖ができ,貞観6年に噴出した青木ケ原丸尾によって西湖と精進湖に分断されて富士五湖となった。広大な面積の山体に降った雨や雪どけの水は浸透し,伏流水となり,古富士の不透水層と古期溶岩の間を流下,その末端から豊富に湧き出る。西富士地域の静岡県富士宮市北部の猪之頭・白糸の滝など,東麓では三島溶岩末端からの湧水が知られるが,北麓では,忍野八海の湧水,北口本宮富士浅間神社南東の泉瑞,月江寺境内の湧水,特に都留市南部の夏狩から十日市場にかけての溶岩崖からの湧出があり,都留市水道源となるばかりでなく,水かけ菜・ワサビ栽培,養鱒などに利用される。富士山は多数の放射状浸食谷状の地形があるが,相異なる溶岩流の接する部分が谷状になっている部分もあり,大きな浸食谷としては,西側の大沢川源頭部にある大沢崩れと,北側の吉田大沢崩れである。富士山は単独の高山であるため裾野から頂上まで植物の垂直分布の変化が見られるが,火山であり,またその年齢が若いため,必ずしも模式的であるとはいえない。精進ルートにおける垂直分布をみると,山地帯(920~1,580m)はツガ・ヒノキを優占種とし,ミズナラ・ブナなどを主要構成種とし,さらに上方にブナ林が出現する。亜高山帯(1,580~2,405m)は下方からコメツガ・シラビソ・オオシラビソ・ダケカンバ・カラマツの順に優占種となる。高山帯(2,405m以高)はカラマツを優占種とし,ダケカンバ・シネヤナギ・ミヤマハンノキで構成される。カラマツ低木林は島状に砂礫地に散在し,高所にも及ぶが,オンタデの群落は,3,000m付近に達している。頂上のイワスゲは特筆に価する。五合目の小御岳付近の天然カラマツ林,青木ケ原溶岩を覆う針葉樹・広葉樹混交の大原生林である青木ケ原樹海,大石茶屋一帯のレンゲツツジ,フジザクラの大群落,鷹丸尾の老樹ハリモミの大自然林などが国天然記念物に指定されている。また山麓は日本屈指の野鳥の繁殖地で,鳥類は200余種に及び,野ウサギ・キツネ・タヌキ・カモシカ・テン・ムササビ・クマなど40種が生息する。剣ケ峰に測候所があり,日本の気象観測上重要なデータを提供し,研究論文も多い。山頂の最高気温17.8℃(昭和17年8月13日),最低気温-35.5℃(昭和13年1月20日)で,平均気温は1月-19.2℃,8月5.8℃である。最大風速は毎秒72.5m(昭和17年4月5日)で,平均風速1月で毎秒2.8m,8月で毎秒10.1m。独立峰の高山のため,乱気流や特殊な雲の発生で知られる。山麓は高原気候で,夏の日中は冷涼でさわやかであるが,夜間は肌寒さを感じる。冬は長く厳しい寒さが続く。当山は,聖徳太子が甲斐の名馬烏駒に乗って富士山頂に至ったという「扶桑略記」の話は別として,古代文化が東国に広まるにしたがって注目された。当山の景勝を描いた芸術は,「万葉集」「古今集」の時代から現代に至るまで,文学・絵画など枚挙にいとまないが,とりわけ山部赤人の「天地の分れし時ゆ……」,また,反歌の「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ……」は古来名歌として知られる。「万葉集」には,赤人の名歌に並んで高橋虫麻呂の「なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる不尽の高嶺は……」,また,反歌の「不尽の嶺に零り置ける雪は六月の……」があり,「なまよみの 甲斐の国」や石花海(剗の海,のち本栖湖と西湖・精進湖となる)・富士川が詠み込まれていることから,富士山の北側,つまり甲斐を旅して詠んだのではないかと考えられる。しかし,北側からの富士山や五湖を文学の素材とした例は,南側の東海道に比べはるかに少ないが,ひとえに官道の通じた地理的条件による。ほかに代表的文学作品を追ってみても,「常陸国風土記」の筑波山との優劣比較の話,平安初期の都良香の「富士山記」,「竹取物語」の富士山名由来,「古今集」仮名序の一文,「伊勢物語」東下りの段「とき知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらん」など,また「更級日記」「海道記」「東関紀行」など日記・紀行にも多く描写され,西行も「山家集」に「風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな」の一詠を残している。謡曲「羽衣」は羽衣伝説,近代に入っては太宰治「富岳百景」の「富士には月見草がよく似合ふ」の一文はつとに知られる。絵画の世界では,屏風や襖などの名所絵などに描かれたが,中でも葛飾北斎の「富岳三十六景」は,駿河側に劣らぬ勝景6図が本県側からの画景として選ばれている。いずれにしても当山は,平安中期以降名だたる歌枕として,固定化した観念を生み出し,やがて明治から昭和の世に横山大観の画業や岡田紅陽の写真として結実するのである。古代の東海道から甲斐への官道は,「延喜式」に「甲斐国駅馬水市,河口,加吉各五疋」とあり,山中湖畔の加吉(現在の山中湖村籠坂)から河口湖北岸の河口(現在の河口湖町)に通じていたことがわかる。鎌倉期には源頼朝が富士の裾野でたびたび巻狩りをし,曽我兄弟仇討の物語は有名であるが,この時代に古代官道は鎌倉往還と称し,甲斐と鎌倉を結ぶ政治上,軍事上の要路となり,鎌倉文化の流入路ともなった。甲斐に臨済宗をもたらした蘭渓道隆も,身延山に入った日蓮も,時宗の遊行2世他阿真教も同道を通った。富士山信仰の歴史は古く,神霊の宿る聖なる山として敬慕され,ついで火を噴く活火山の姿は神霊の顕現として長い間畏怖されてきた。火山による神霊の荒ぶる姿を鎮めようとして勅命により八代(やつしろ)郡に浅間神社が祀られたという。これに関連する伝承をもつ神社として河口浅間神社,高田の浅間神社がある。また富士二合目に小室浅間神社(里宮は富士御室浅間神社)が貞観7年に祀られたと「三代実録」に記されている。平安期,僧末代上人が富士山頂に大日寺を建立したことなどにからみ,大日信仰も根強く,山伏修験などの修養道場となった。道者の富士登山のはじめは役行者小角で(扶桑略記・日本霊異記),平安末期から鎌倉期にかけて修験道の信仰と結びついて富士登拝の風習が起こり,次第に普遍化していった。戦国期には道者や先達の組織が整い,吉田口から盛んに登拝していたことが「妙法寺記」に書かれている。近世に入ると富士講の普及とともに富士信仰・富士登拝は一層盛んになった。登山道は古くから北は吉田口・精進口,東は須走口,南は村山口・大宮口があり,須走口が吉田口と合する地点を大行合といい,村山口は大宮口と合するため頂上に至っては南北の2道となる。吉田口は登拝者が最も多く,北口本宮富士浅間神社の大鳥居(登山門)を出て南行し,日本武尊東征の帰路富士を遥拝したという大塚,諏訪の森の御林,仙瑞(富士の湧水で霊泉・泉瑞・泉津)を経て中の茶屋・大石茶屋で休息し馬返しに至る。江戸期富士講の爆発的な人気とともに登山口には御師と呼ばれる宿坊が並び,地方の講社と結びついて関八州・信越・奥州に至るまで富士道者の強力な組織をもった。上吉田は御師の町で,御師は浅間神社の神職を兼ねながら身分は小山田氏の家臣で武士として優遇され,軍役をも勤めていた。その屋敷は広く,浅間神社神殿や神殿座敷を設け,登拝者が水垢離を行うため屋敷内に川を流し,小さな滝があって精進し修行した。登山期以外には旦那回りといって自分の講に属する信徒の家々を訪れて祈祷をし,御札を配り,初穂と称する金品を受けていた。幕末には江戸八百八講といわれるほど繁栄した。登拝者からは師職共120文を受け取っていた。これには不浄祓料32銭・役の行者堂20銭・金剛杖14文・中宮32文(休息料16文を含む)などを含み,この役銭は領主の重要な収入源であった(国志)。明治維新時には上吉田の御師集団による蒼竜隊,河口御師集団の隆武隊が官軍に参加したのは有名な話である。名勝としての当山は,昭和11年2月,富士山を中心とする地区が富士箱根伊豆国立公園に指定され,その後箱根地区,伊豆半島,伊豆七島が漸次追加指定された。頂上でのご来迎やお鉢めぐりは壮観。標高2,300~2,600mの中腹を一周するお中道めぐりは,樹林帯の上に雄大な展望が開け,御庭・小御岳などの景勝地がある。北麓には北口本宮富士浅間神社・富士五湖・青木ケ原樹海・紅葉台・忍野八海やハリモミの純林などが広がる。昭和39年3月,県営有料道路として南都留郡河口湖町船津から五合目まで,富士山有料道路が開通し,中央自動車道富士吉田線の開通と,富士急行線の国鉄中央本線急行直通乗入れと相まって富士登山者や富士岳麓観光客が激増した。河口湖畔には昭和45年,県立富士ビジターセンターが開設され,富士の自然・人文などの生成をパネル・写真・模型などで展示説明している。近くに富士急行経営の富士急ハイランド,富士観光開発の富士スバルロッジや森林公園,ロープウエーなどがあり,河口湖に映る逆さ富士など河口湖畔の船津一帯は富士観光の中心としてにぎわっている。昭和46年同湖周辺の交通渋滞を緩和するため富士河口湖大橋が架設された。山中湖畔の旭ケ丘は徳富蘇峰の命名で別荘地として知られ,南岸には学校や会社の寮,バンガローやキャンプ場が多く,避暑地として名を得,東端の平野は民宿テニス村として知られる。冬は結氷してスケートやワカサギ釣りの客が多く,またフジマリモは県天然記念物に指定されている。西湖畔には西湖や青木ケ原樹海を展望できる紅葉台をはじめ富士風穴・蝙蝠穴などの溶岩洞穴が多く,根場集落は民宿地で知られる。本栖湖は五湖中最も深く,湖畔には本栖湖青少年スポーツセンターや日本モーターボート競漕会の本栖研修所がある。精進湖畔に青木ケ原樹海・富士風穴・パノラマ台などがあり,冬はスケート場としてにぎわい,樹海内を東海自然歩道が通る。毎年7月1日は富士山のお山開き,8月1日は山中湖の報湖祭,8月5日が河口湖の湖上祭,8月26日はお山じまいで吉田の火祭りといろいろな催しが行われる。富士吉田市は富士北麓の中心都市で,観光地・機業地として知られる。機業は西桂から下吉田,明見が盛んで甲斐絹・洋傘地・服裏地・ネクタイなどを生産する。富士西麓は静岡県の朝霧高原から続く富士ケ嶺高原で,西八代郡上九一色(かみくいしき)村の大規模な集約酪農地域である。鎌倉往還(現国道138号)の南一帯は梨ケ原と呼ばれ,古くからの入会地。第2次大戦前は日本陸軍,戦後は米軍の北富士演習場として接収されたが,昭和31年吉田登山道以西は返還され,そのほかは自衛隊の演習地となっている。しかしなお忍草母の会などが全面返還や林雑補償の運動を続けている。梨ケ原に中央自動車道富士吉田線と東名高速道路を結ぶ東富士高速自動車道の建設計画が進む。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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