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稲附村
【いねつけむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治8年の村名。水内(みのち)郡のうち。飯綱山の霊仙寺岳が平地にのぞむ山麓線に位置する。大島社について「水田を開墾した所,秋の成熟が非常に良好であったので諸方より見聞に来る人が多く稲植付を見に勧請して祀る」とあり(上水内郡神社誌),この地方では早くから稲のしつけが可能であったので地名を稲附としたようである。元和元年長沼藩領,正保2年幕府領,天和2年坂木藩領,元禄15年からは幕府領(明治元年松代藩預り地)。村高は,「慶長打立帳」5石余,「正保書上」154石余,「元禄郷帳」269石余でほかに当村枝郷石橋新田村211石余・高山新田村26石余があり,「天保郷帳」321石余でほかに当村枝郷石橋新田村235石余・高山新田村47石余を記し,「旧高旧領」321石余。元禄年間までに石橋新田村・高山新田村を各々分村。天正8年12月29日の武田勝頼宛行状案(信史補遺上)に「信州河北之内稲付辻屋分百貫文之所出置候」と見える。戸隠下道(表道)と市道(善光寺道)が通過し,馬方と馬喰が栄えた。貞林寺境内の弘化3年建立の薪火滅の石碑は,伝承では当時馬喰が大勢いて博打が流行したので,それを反省して全てのものを焼き捨て清めるために建立したという。同寺は文禄年間に五輪山へ創立,開山南盛。真言宗であったが寛文年間僧雪渓が住持になり中町に移り曹洞宗盛伝寺末(長野市押鐘)となった。仁王門には戸隠神社奥社随神門にあったといわれる仁王が安置される(信濃町誌)。明治2年伊那県,同3年中野県,同4年長野県に所属。明治元年の戸数38・人口189。同6年貞林寺境内に日省学校が設置され就学者は男子31,不学者は男子45・女子86であった。同年村持ちで無住の弥陀堂が廃寺となる。同8年大井村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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