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佐都西郡(中世)


平安末期~戦国期に見える常陸国の郡名古代の久慈郡は平安末期までに久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡に四分されるこのうち当郡は久慈川と里川の合流点以北の里川西岸の地域弘安田文に小野崎・中小野崎・阿久津・小野・西河内・吉津・礒部・石神・鎌田・東河内・額田・大田白岩など総田数256町3反120歩が記載され,現在の常陸太田市西部,日立市東河内と久慈川を越えて東海村北西部,那珂町北東部をも含む(税所文書/県史料中世Ⅰ)ただし,郡内各郷の田数の合計と田文に記された郡の総田数とは一致しない嘉元田文にも同数値で記載されている(所三男氏所蔵文書)平安末期,当郡は佐竹氏の本貫地であった保延年間新羅三郎義光の子義業が当郷に来住し(水戸市史),子昌義は土着して佐竹氏と称したその後佐竹氏は太田郷に本拠を移すが,治承4年11月源頼朝は佐竹秀義を攻撃,その所領を没収し勲功のあった諸士に充行ったという(吾妻鏡)「秀郷流系図」の佐伯の項によれば,当郡の地頭職は佐伯実盛に充行われたものと思われる(続群6下)「吾妻鏡」建保元年5月7日条に「常陸国佐都〈伊賀前司〉」と見え,同年の和田義盛の乱の勲功の賞として佐都東郡・佐都西郡の地頭職は佐伯実盛の甥の伊賀光季に与えられた一方,佐都郡内には佐都荘があり,荘域は当郡の大部分と佐都東郡の岡田郷が含まれると考えられる嘉元4年6月12日の永嘉門院御使申状并昭慶門院御領目録案に「常陸国作都庄〈本元・東方〉」と見え(竹内文平氏所蔵文書/栃木県史),佐都荘の本家職・領家職は亀山院―昭慶門院―世良親王と相伝され,鎌倉末期に臨川寺に寄進された(天竜寺文書/栃木県史)建保元年伊賀光季に与えられたのは,佐都荘の地頭職を含むものと考えられる佐都東郡は弘安8年の霜月騒動以後北条氏得宗領となったと考えられ,佐都西郡も同じような過程をたどったものとも思われるが未詳また,文治3年10月29日には奥郡に対して源頼朝家政所下文が発給され,「鹿嶋毎月御上日䉼籾」として当郡が9石8斗を負担することが定められている(吾妻鏡)南北朝期佐竹氏は旧領を回復し,文和4年2月11日の佐竹義篤譲状案によれば,嫡子義香(義宣)に本拠地である佐都西郡内太田郷が譲与され(佐竹文書/福島県史),康安2年正月7日の佐竹義篤譲状写にも「佐都西伊達村」が見える(大山義次文書/家蔵文書)室町期~戦国期においても当郡は佐竹氏の本貫地であった延徳2年4月佐竹義治の死後,家督相続をめぐって義治の子義舜と山入義藤・氏義の対立が激化し,佐竹の乱が起こる佐竹氏は山入義藤・江戸通雅らの攻撃により太田城を逐われたが,この乱は明応2年冬頃に和議が成立し,収束した明応3年頃と推定される年月日未詳の当乱相違地注文写によれば,佐竹領のかなりの部分が押領されていた(岡本元朝文書/家蔵文書)天正19年3月,佐竹義宣は本拠を太田から水戸に移すが,当郡は依然として本貫地の性格を有していた文禄3年の太閤検地を機に久慈郡に属す

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7273876