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信太荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名常陸国のうち古代に信太郡とよばれた地域のうち,小野川を境に,右岸の地域が信太東条(東条荘)と称されるようになり,左岸の地域が信太荘として立荘される霞ケ浦と小野川・桜川とに囲まれた地域を指し,東は東条荘,南西は河内郡,北は霞ケ浦および桜川を境に南野荘と接していたと推定される貞応2年5月3日の安嘉門院庁資忠注進抄写に「常陸国信太庄事……藤原宗子〈宗兼女,忠盛室,頼盛母〉寄〈仁平元十二〉国八丈絹三百疋,仕丁六人〈十一月〉」と見える(東寺文書2/大日古)仁平元年に,藤原宗兼の娘で,平忠盛の室となり,平頼盛の母となった藤原宗子が,美福門院得子に国八丈絹300疋と11月分の仕丁6人を年貢公事として納めることを条件として寄進し,信太荘が成立したこの藤原宗子の寄進には,一郡にも及ぶ信太荘の広大さから考えて,息頼盛が久安5年~保元元年まで常陸介であったことと深いつながりがあるものと思われ,領家職は平頼盛に伝領される一方,本家職は,永暦元年美福門院得子の没後娘の八条院暲子に譲られ,信太荘もこの時から八条院領荘園の1つとなり,安元2年2月の八条院領目録に「庁分御庄」の1つとして「常陸国信太」と見える(山科家古文書/県史料古代)領家職は平頼盛からその子光盛に伝えられるが,文治元年と推定される6月7日の平頼盛充源頼朝書状案に「したのさう(信太荘)の事,さうをまいらせかへ候て,みなみのゝさう(南野荘)は,御さた候はんこと,なにかはくるしく候へき,地ぬしはかりこそ,人にたふ事にて候へ,世中をちゐ候はむのち,さまたけ,いまは候へからす」とあり,光盛は当荘と南野荘とを某と交換している(久我家文書)年未詳3月20日の氏名未詳奉書に「八条院庁分御領内常陸国信太庄,為御祈祷料所,御寄付金剛寺候」と見え,八条院暲子が没する建暦元年以前に,信太荘の領家職は河内国金剛寺に祈祷料所として寄付された(金剛寺文書/大日古)「吾妻鏡」によると,平安末期源頼朝の叔父志太義広が信太郡内に本拠を有し,鹿島社領を掠め領し,やがては数万騎の逆党を率いて鎌倉を攻めようとする動きをみせるが,信太荘とのかかわりの詳細は不明ただこの様な在地の混乱の中で,京都への年貢公事は途絶えたようで,文治4年,源頼朝は京都に東国荘園の処置を問いあわせている「所々地頭沙汰之間事」に関する勅答の中に,八条院領荘園として「常陸国志太庄」も見える(吾妻鏡)八条院領荘園の多くは,その後春華門院昇子に,次いで順徳天皇に,やがて後鳥羽上皇の管領下に入る承久の乱の結果,一時鎌倉幕府に没収されるが,まもなく後高倉院守貞親王に渡され,貞応2年には娘の安嘉門院邦子に譲渡される建治2年4月の資忠注進には,「庁分御領内也,御年貢国絹三百卅疋」と見え,この頃までに年貢は国絹のみに統一されている「当庄六十六郷之地也,此内十一郷⊏⊐方,惣公田八百廿六丁」とも見え(東寺百合文書),当時信太荘は66郷からなり,公田は826町であった一方,旧八条院領は,その後亀山上皇を経て後宇多上皇の管領下に入り,嘉元4年には妹の昭慶門院憙子に伝領された同年6月12日の永嘉門院御使申状并昭慶門院御領目録案に庁分の一荘として,「常陸国信太庄」と見え(竹内文平氏所蔵文書/栃木県史),皇室領荘園として伝領されている弘安田文には「信太東二百七十丁二段大,信太庄六百二十丁内」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文には「一,信田東 二百七丁二反大,一,信田庄 六百二十丁内,本庄四百十丁,加納二百十丁」と見える(所三男氏所蔵文書)嘉元田文によれば,本荘410町と加納210町とからなり,惣公田は620町であったことになるが,建治2年段階における惣公田800町余とする資忠注進と公田数を異にしている後宇多法皇は東寺に供僧・学衆を設置し,その供料所を寄進するが,信太荘もその1つとなったようで,文保2年正月24日の院宣に「常陸国信太庄,所被寄付教王護国寺也,早令知行当寺供僧学衆等,供料無懈怠,可被致其沙汰」と見え,さらに6月19日の院宣にも「東寺領常陸国信太庄被興行候」と見える正中3年2月18日の太政官牒によれば,後醍醐天皇が,父後宇多法皇の遺志を継ぎ東寺の興隆を図るために,父の寄進した諸荘の東寺知行を確認している嘉暦3年10月20日には執権北条守時も諸荘の東寺寄進を追認しているこうして東寺領荘園となった信太荘に対し,東寺は雑掌としてはじめ勝慶を任じ,そののち嘉暦3年2月21日に請文を提出した定祐が雑掌に任ぜられている特に定祐は荘内各郷の地頭の年貢未進を追及し,嘉暦4年~元徳3年にかけて,関東御教書や関東下知状等により年貢京進の催促が行われたので一定の成果をあげたようであるこの時の一連の文書群によって,鎌倉末期頃の信太荘内の郷名や地頭名等を知ることができる正中元年~嘉暦3年に年貢未進をしていた郷地頭は,若栗・弘岡・御安戸の近江式部大夫政平,塙の越後左衛門大夫将監伊時,飯岡の近江兵庫助政親,本郷の遠江式部大夫守政および遠江幸寿丸,大岩田・安見の駿河式部大夫高長,初崎の遠江修理亮,土佐前司跡と総称される上茂呂・竹来・青谷(以上,三郎分)・高井(殊鶴分)・矢作(式部大夫分)・下大村(蔵人分),郷名不詳の三河式部大夫政宗のほか(東寺百合文書),地頭代官良円がかかわっていた大村・吉原(惣領分),福田・竹岡・荒川(庶子分)などであったさらに地頭名不詳の古来・烏山・弘戸・土浦・小池等の郷名も確認できる(東寺古文零聚)地頭の多くが北条氏一門であったことは注目される元徳2年6月16日の定勝が提出した京進用途未進分支配状に「段別十六文定」と見え,北条氏一門は各郷の地頭として信太荘からの年貢銭を請負っていたが,一定の京進が行われるようになった矢先に鎌倉幕府が滅亡し,北条氏一門が地頭であった信太荘は大きな影響を受けた貞和3年6月13日の学衆評定引付に「六十六郷郷々配分事者,寺家雑掌不及地下所務……有惣管領之仁令請取……文書等惣管領之仁令持之処,関東闘乱之刻令紛失畢」と見え,信太荘内の各郷地頭の請負った年貢を総括していた「惣管領之仁」とのつながりの中で一定の京進があったが,その手元にあった文書等も紛失し,年貢の京進も停止するという状況であった建武3年12月8日の光厳上皇院宣により,信太荘以下の東寺知行の安堵が行われたので,貞和3年2月19日には,定祐を再び「信太庄沙汰雑掌」とし,翌年10月17日には学衆の一人である権律師弘雅が信太荘給主職を引き受けるにあたって請文を出しているこのようにして信太荘からの年貢京進を回復する準備が整えられたが,肝心の訴訟の進展はなかったようであるわずかに延文元年11月8日の後光厳天皇綸旨に「常陸国信太庄」と見えるが,実際には近国荘園の様な整備は行われず,次第に遠国にある有名無実の荘園となっていった興国元年10月10日の北畠親房書状によれば,同年(暦応3年)9月23日,南朝方の小田治久,春日顕国等が東条城・亀谷城を攻めて佐竹方から奪回し,東条一族に両城を託している(結城文書/大日料6-6)しかし康永3年2月日の別府幸実軍忠状に「同十七日,屋代彦七郎信経同道仕て馳向于信太庄之処,佐倉城凶徒等令没落候訖」と見え,暦応4年9月には高師冬の軍勢が信太荘に侵入し,屋代信経の案内を得て,9月17日には佐倉・東条・亀谷の諸城を陥落させ,23日には高井城付近を焼払うなどの動きをしている(集古文書/大日料6-8)信太荘は元徳年間には上条と下条に分かれていたようであるが,康永2年8月3日上杉重能は悟性寺に「常陸国信太庄内長⊏⊐」を寄進している(浄智寺文書)おそらく信太荘上条に位置する永国の事と思われ,上条は上杉氏の支配下におかれたと推定される貞和3年10月の権現堂別当職安堵状の端裏書に「播州時代給主小見野六郎」と見え,応永33年12月の孝尊置文にも「高播磨守信太庄下条知行之時」とある信太荘下条は,高師冬の支配下におかれ,現地支配にあたったのが小見野六郎であり,貞和4年3月25日に宗覚御房に寄進状を発給している有道盛胤と同一人物と思われる(円密院文書/県史料中世Ⅰ)しかし足利尊氏と直義兄弟の争いに関連して高師直と対立した上杉重能の養子となった上杉能憲が,観応元年11月12日,信太荘で挙兵し(醍醐寺文書/大日古),高師冬の勢力を信太荘から追い出しているこの時の能憲の基盤は信太荘上条と思われるその後,下条は佐々木道誉に勲功の賞として与えられたが,文和4年には下条の替地として近江の馬淵荘北方を与えられている(朽木文書)応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文に「ふつとの津〈した,一方小田知行分,一方吉原知行分〉……あんちうの津〈小田知行分〉」と見え(香取文書/千葉県史料),永和3年4月19日には小田孝朝が大和房頼誉を「信太庄君山郷内権現堂別当職」に補任しており(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),下条は小田氏の支配下に入ったと思われる上条内の大岩田郷についても,応安7年9月21日に小田孝朝が若狭房道祐を「信太庄大岩田郷内西光寺別当職」に補任している(法泉寺文書/土浦市史編集資料)ところが小山氏の乱に際し,小田孝朝が小山若犬丸を援助したため,嘉慶元年には鎌倉府の小田城攻撃を受け信太荘も没収されたと思われる(後鑑)しかし小田政治の代には,南野荘の惣社と称される桑山社の造営に関する年未詳9月12日の判物に「田中庄・信太庄可有勧進事」と見え(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),戦国期の氏治の代にはかなり信太荘内に勢力を拡大している上条については,至徳2年10月25日の足利氏満寄進状に「常陸国信太庄内古来・矢作・中村等郷之事,右任上椙安房入道道合申請」と見える(浄智寺文書)下条についても,前記の小田氏との関連で,嘉慶元年8月7日に上杉憲定が臼田氏に下条内の布作郷を充行っている(臼田文書/県史料中世Ⅰ)応永3年7月23日には,室町幕府から鎌倉府執事上杉朝宗に対して,「常陸国信太上条・同下条」を前年7月24日の安堵にまかせ上杉憲定の所領として打渡すことを命じる奉書が出され(上杉家文書1/大日古),これ以降上杉氏は名実ともに信太荘全域に支配権を及ぼしていく実際に信太荘に入部し,その支配にあたったのは,嘉慶元年に布作郷を充行われた臼田氏,応永16年「惣政所」として信太荘とかかわり,応永18年9月6日に信太荘下条佐倉郷古渡村の円密院に紛失状を与えている土岐原氏(円密院文書/県史料中世Ⅰ),および大越氏,近藤氏などで,「信太庄山内衆」とよばれた人々であったその動向は,結城合戦への出陣を要請した永享12年と推定される6月12日の上杉清方判物が「信太庄契約人々中」に充てられ,古河公方との対決を内容とする享徳4年と推定される5月8日,および年未詳3月10日の上杉房顕判物が「信太庄山内衆中」「信太庄契約中」に充てられている事から一端を知ることができる(臼田文書/県史料中世Ⅰ)この動きに関連して寛正元年4月28日鎌倉府方として戦った諸将に「去年十一月,於常州信太庄合戦之時」と足利義政が信太荘合戦に対する感状を与えている(御内書案/続群23下)永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写には信太荘内として懸馬村・塙郷・木原郷・上室郷・土浦郷・広津村・高津郷などが見える(続常陸遺文)戦国期,江戸崎に本拠を定めた土岐氏は当荘のほぼ全域を支配下におさめたが,天正18年豊臣秀吉により所領を没収され,佐竹義重の子蘆名盛重が江戸崎に入部した当荘では文禄4年に太閤検地が実施されたようで,信太荘域は大部分が信太郡となり,北西部は新治郡,南西部は河内郡となった文禄4年3月23日の検地帳の表紙には「常州信太庄烏山村御縄打水帳」と見える現在の土浦市南部,つくば市東南部,阿見町,美浦村,牛久市東部,江戸崎町の大部分が荘域に含まれる

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7274013