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山河荘(中世)


南北朝期から見える荘園名下総国のうち康永4年3月日の香取社造営所役注文に「一宇 南庁〈結城〉山川庄役所 地頭〈結城七郎(直朝)跡・山川判官(景重)跡〉」と見え,地頭は山河景重であった(香取神宮文書/結城市史)結城氏一族山河氏の本領で,おそくとも鎌倉後期には当荘の地頭として結城郡南部に領主権を形成していた延元2年3月16日の後醍醐天皇綸旨写に「結城郡内上方者,為朝祐跡,先立拝領之,下方者〈号山河〉,此領主山河判官(景重カ)者,今度成朝敵了」との注記が見え,結城郡下方を山河と称したと記されている(伊勢結城文書/結城市史)暦応3年3月日の別府幸実着到状写に「著到 武蔵国 別府尾張太郎幸実,右,去年〈暦応二年〉八月,自鎌倉御共仕節,結城・山河・西明寺・下総国駒館,致忠節候訖」と見える(別府文書/結城市史)駒館(駒城)については,宝徳3年3月27日の休畊庵寺領注文に「一,下総州山川庄駒城〈末寺〉普門寺分」と見え(報国寺文書/結城市史),山河荘は鬼怒川を越えて,常陸国の駒城(現下妻市)にまで及んでおり,結城郡下方=山河荘とは確定できない駒城は本来ならば常陸国に属するが,この時期山川荘の一部に組み込まれていたため,下総国のうちとして記されたものと思われる山河氏は重光―重義―貞重と3代にわたり山河荘を支配するが,北条宗家と深い結びつきを持っていたため,鎌倉幕府の滅亡とともに衰退したと推定され,貞重の弟光義の系譜を引く山川氏が南北朝期以降貞重系の山河氏をしのぎ,室町期~戦国期には山川荘の中心的な支配者となった(結城市史)応永2年11月23日の了仙借用証文案に「取主 下総国山河郷内毛呂之住人 れうせん(了仙)」と見え,毛呂郷の住人了仙が某から1貫750文を借銭している(金沢文庫文書/結城市史)毛呂郷は元亨元年8月に山河貞重が武蔵国金沢称名寺に寄進したため,称名寺領となっていた同郷は結城郡下方に含まれるものの,山河荘には入っていなかったと推定されるが,南北朝期以降山川光義・その子景重などが毛呂郷に侵入し,徐々に毛呂郷が山河荘を本拠とする山川氏の支配下に置かれていったため,「山河郷内毛呂」と記されたと推定される室町期と推定される年未詳10月1日の山川景貞寄進状写にも「下総国結城郡山川郷茂呂河宝蔵寺之事」と見える(円福寺文書/結城市史)天文18年3月19日の多門坊改源旦那売券に「下総国豊田庄一円,先達者北地谷光福寺,同山川一円 如証文・願文,在所先達書渡申候」と見え,当荘の先達職が売買されている(潮崎稜威主文書/結城市史)永禄3年秋から翌年にかけての上杉謙信第1次関東出兵時に作成されたと推定される年月日未詳の関東幕注文に「小山衆」として「山河弥三郎 三反之右ともへ」と見える(上杉文書/結城市史)永禄8年頃山川氏重は綾戸城を築城し,また山川新宿に結城寺を移建して寺領を寄進した(結城寺文書/結城市史)天正5年と推定される簗田中務大輔充北条氏政書状に「抑至于山河近陳,今日廿二,宿城悉仕払,凶徒五十余討捕候」(常総遺文所収文書/結城市史),同年5月24日の蘆名盛隆充壬生周長書状にも「去廿日山川戸張宿城無貽被取破,生城計候」と見え(歴代古案/結城市史),山川城が小田原北条氏の攻撃により破られている以後,山川氏は小田原北条氏の北進に対抗するため多賀谷氏・水谷氏とともに次第に結城氏への結束を強化していった「堯雅僧正関東下向記録」に「天正四丙子六月十二日立酉酉(醍醐)云々……自此所付山川/結城寺,四日逗留也,八月廿日,於結城寺印可」と見え,天正4年4度目の関東下向を行った三宝院の僧堯雅は当地の結城寺に4日逗留し,8月20日には印可を与えている(三宝院文書/結城市史)天正16年2月9日の山川晴重判物証文案に「依為旧旦蒙仰候,然者於向後者,山川庄中之僧俗共,地蔵院可為宿坊,并日牌月牌等之志,皆以彼坊江可被納候」と見え,晴重が山川荘内の僧侶と一般俗人をもすべて高野山地蔵院の檀徒として所属させ,諸供養の一切を同院へ向けさせることを証明しており,山川氏の領域内における支配権をうかがわせる(下総山川文書/結城市史)戦国末期の山川領は,結城郡下方とよばれていた山川氏の本領が中心で,一部猿島郡にも及んでいた天正18年9月20日,山川晴重は豊臣秀吉から「下野(下総)国本知分所々目録事」として,1,622貫950文を安堵された(越前山川文書/結城市史)ただし,同文書には山川領でありながら記載されていない村も多く,この1,622貫余は山川氏の直轄領のみの領知高であった可能性が高い慶長6年の結城秀康の越前転封に伴い山川朝貞も越前に移り,当地は山川氏の支配を離れる慶長17年8月7日の関東八州真言宗連判留書案には「同(下総国)山川十月七日,結城寺……山川之内菅谷之村,医王寺……同十月七日荘厳寺」「同(下総国)山川領柳橋村十月七日申貝,滝蔵院」「同山河十月七日申貝,摂持院」と見える(醍醐寺文書3/大日古)現在の結城市南東部,八千代町北東部から下妻市黒駒にかけた地域に比定される

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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