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山川藩(近世)


江戸初期の藩名慶長14年下総(結城郡)山川領で5,000石を知行する旗本松平(久松)定綱が,同領において1万石を加増され,すべて1万5,000石をもって立藩元和元年(一説に元和2年)定綱は5,000石を加増され,常陸下妻へ移封し,代わって相模沼目郷・下野【しもつけ】皆川領などに所領をもつ旗本水野忠元が下総山川領(1万石)・同結城領(1万石)・下野鹿沼領(1万石)において3万石を与えられ,山川を居所として入封ただし「丕揚録」では入封時の所領を下総結城郡26か村,下野芳賀郡6か村・落合庄27か村・権具庄6か村・宝庄4か村・犬飼庄2か村・都賀郡1か村・河内庄1か村,常陸河内郡5か村,武蔵足立郡1か村とある元和3年忠元は将軍徳川秀忠の日光社参に際して鹿沼領大沢に新御殿を建て,盛膳を献上した功により近江蒲生郡5か村・5,000石を加増され,藩領は3万5,000石となった忠元は山川城を修築して城下町の造成に着手するなど藩の基礎を固め,山川領は忠元の直轄支配地とし,結城領・鹿沼領・山川領内諸川新田には結城氏旧臣なども登用し代官を派遣して統治にあたらせたという元和6年遺領を継いだ嫡子忠善は幼少のため,将軍秀忠から忠元と知己であった遠江横須賀藩主井上正就を後見人とされた(丕揚録)忠善は将軍秀忠・家光に近仕して幕政上重要な役割を果たしただけでなく,藩主としても寛永7年に領内検地を実施するなどして藩財政の基礎を固めた当時の家臣にはほぼ地方知行が充行われ,家臣団は少なくとも70名以上と推定される(水野家文書/東京都立大学所蔵)寛永12年忠善が駿河田中へ移封されたため廃藩(結城市史)

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7277187