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結城藩(近世)


江戸期の藩名元禄13年能登西谷から水野勝長が所領を下総結城(8か村),上総武射(11か村)・山辺(2か村)の3郡に移され,すべて1万石余(ほかに込高5,326石余)となり,同11年武射郡3か村,下野【しもつけ】芳賀郡9か村,常陸真壁郡2か村・那珂郡(西那珂郡)1か村・河内郡(西河内郡)1か村の計3,000石,同16年結城(9か村)・芳賀(未詳)・真壁(8か村)の3郡で5,000石を加増されすべて1万8,000石(ほかに込高8,882石余・新開95石余)となり,居所を結城に定め築城して立藩築城にあたり幕府から1,000両を下賜され,さらに2,000両を拝借したという藩領は享保9年からは結城郡13か村・武射郡15か村・山辺郡2か村・真壁郡12か村・茨城郡1か村・下野都賀郡3か村・同芳賀郡10か村で構成されていた宝暦10年の御領知高寄帳によれば藩領の実高は2万7,306石余,うち込高9,306石余(結城市史)譜代藩主水野氏は勝長ののち,勝政・勝庸・勝前・勝起・勝剛・勝愛・勝進・勝任・勝知・勝寛と相続された当藩の職制と家臣団については,嘉永6年の分限帳では,530石の知行をはじめとして家老4・番頭3・中番頭1・用人4・側用人1・用人並之次1・家老嫡子1・物頭3・徒士頭1・寄合2・取次2・用役膳番1・大役人2・大役人格1・馬廻り組迦7・馬廻り席27・給人12・給人並格11・同並格次席2・中小姓組迦2・中小姓組17・小児席17・中姓格2・医師11・出入医師5・徒士組迦5・徒士組10・同格12・御目見格19の計186名があげられ(結城市史),明治初年の御家中姓名帳では藩士169名のほかに坊主・小役人・足軽・坊主雇・足軽坊主・足軽雇・吟味方支配の軽士84名となっている(同前)江戸後期になると藩領村々では領主の年貢収奪と高利貸資本に支配され,従来の人口が3~4割も減少するという深刻な荒廃現象が生じていた領主は人口減少で年貢収入が減少すると,その分を残りの農民に転嫁したため,領主と農民は対立をみせていた寛政2年には藩領結城郡鹿窪村では百姓宗七が指導者となって,領主藪主計の年貢収奪に反対した百姓一揆が組織された文化14年には同郡上山川村では村入用をめぐる争論が起こり,翌年村民152名が名主退役を迫る村方騒動に発展した天保12年にも五左衛門組で組頭不帰依運動が起こり,組内は両派に分裂して江戸出訴となったそれに呼応するように矢畑組でも組頭と小前一同の争論が生じた他方,藩領の農民は鬼怒【きぬ】川水運によって江戸市場への出荷が容易なため様々な商品生産を行い,農業経営を補完していたが,とりわけ結城紬は藩の保護も得て江戸中期には江戸市場で一定の評価を受ける程に成長した藩は年貢減少で財政悪化をきたしていたが,農民の商品生産の統制を通じて藩益に結びつける政策も打ち出した幕末期の政争のなかで当藩は藩主が佐幕(江戸)派,藩士が勤王(国元)派となって対立をしていた藩主勝知は新政府が樹立されてからもさまざま不帰依を表したので,明治元年国元派は養子勝寛を擁立して勝知を隠居させ藩の存続を企図したこの策動を知った勝知は彰義隊の応援も得て帰国したが,入城を拒絶されたためついに結城城攻撃が行われ,落城したのち新政府軍は上野【こうずけ】館林・信濃須坂の藩兵を加えて城を奪還したが,この事件のため藩領1,000石が減封となった(結城市史)明治3年の藩領は結城郡12か村・芳賀郡10か村・都賀郡3か村・真壁郡12か村・茨城郡1か村・武射郡15か村・山辺郡2か村の2万6,369石余,5か年平均の藩収は米4,548石・永1,686貫文余・結城町紬木綿産物税35両・久保村紬木綿産税3分(藩制一覧)明治4年の廃藩置県後結城県となる

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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