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榎富荘(中世)


平安末期~室町期に見える荘園名越前国坂南郡のうち坂井平野の南端に位置する公家領荘園寿永3年8月26日,後白河院は院御領の「越前国榎富庄」など5か所を,保元の乱で敗れた崇徳院と藤原頼長の霊を崇めるために京都の春日河原に建立された粟田宮に寄進した(天理吉田宮文書)年月日未詳の某書状によれば,鎌倉初期には後白河院の娘の殷富門院領となる領家は民部卿御局で,彼女の乳母の外記入道某が預かっていた外記入道某は譜代の下人藤内太郎惟光に荘園支配を委ねたが,藤内太郎は荘園を自分のものにして得分をとって借上(金融業)をしていたという榎富荘からの収入は現地で1,000石あまりといわれ,大荘園であった(普賢延命法裏文書)建長8年9月29日の崇徳院御影堂目録には,粟田宮社領として当荘が見える(門葉記/大正新修大蔵経図像部12)下って応永33年7月7日の粟田宮神領目録にも当荘が記され,嘉吉元年11月7日当荘が同宮へ安堵されているが(粟田宮文書/ビブリア20),南北朝期以降は実質榎富上荘・榎富中荘・榎富下荘と3分割されていたようである現春江町江留【えどめ】上・江留中・江留下一帯の細長い地域に比定される

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7329733