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庵治浜村(近世)


江戸期~明治7年の村名山田郡のうち庵次浜とも書き,単に浜とも称した庵治郷に属す庵治半島,八栗山北麓に位置し,大島・兜島などを含む海岸地域庵治の地名の由来については,弘法大師が掘ったと伝える阿伽井【あかい】の泉があり,その上の石に阿の字が刻まれていたことに由来する説(庵治村誌),葦の生えている地,つまり葦地が「あじ」となったという説(庵治町史)などがあり,浜は海岸部であることによるという寛永10年讃岐国絵図には当村と庵治陸村(陸村)を合わせて庵治浦として描かれ,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」には見えず,寛永19年の小物成帳では庵治浦分のものがあり,寛永~貞享年間に庵治浦が当村と庵治陸村に分村して成立したと思われるはじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領村高は,寛永10年讃岐国絵図では庵治浦として(浜・陸両村分)846石余,「貞享元年高辻帳」178石余,「天保郷帳」312石余,「旧高旧領」386石余寛永19年の小物成帳によると庵治浦分として綿が380匁納められているが,塩33石余は庵治村の上納分となっているこの上納分はすべて当村からのものと推定される安永年間頃の庵治浜村水夫除地絵図扣には地内才田に塩浜4筆と塩釜屋敷が描かれ,明治3年の村勢一覧に塩屋釜1か所と記されていることから(庵治町史),明治期に入っても塩業が行われていたことがわかる阿波の斎田から製塩法が伝えられて才田を地名としたとされ(庵治村誌),同地には塩釜神社が残っている当村は瀬戸内海に囲まれており,昔から漁業が盛んであった網をもつことを許可した浦株は元禄年間のものからあり,その種類も中高・地引・大手ぐり・コノシロ・イワシ・流しと豊富で合計57帖が許可されている漁民を監督するために浦政所が置かれ,その下に浦年寄・世話係が配された庵治石が最初に用いられたのは高松城築城の時だと伝えられ,文化11年に屋島に東照宮を建築する際,和泉国の石工を招いて庵治石を取らせるようになってから石の産出が盛んになった地内久通・丸山には多くの石切り場(丁場)がある(庵治町史)文化5年9月に讃岐を訪れた伊能忠敬一行は,同年10月25日に当村大島から測量を始めて1日で庵治全体の測量を終えた神社は天満神社・住吉神社ほか10社で,大島には皇子神社がある寺院は延長寺・大師寺ほか4か寺(うち3つは庵)地内江の浜には高松藩主松平家の別邸の1つがあり,寛文年間に建てられたと伝える明治5年に焼失したが,その地を御殿もしくは古御殿と称している明治3年の浜村戸数は584・人口2,490(男1,301・女1,189),牛145,池50,砂糖植付反別4町余であった(庵治町史)明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県に所属明治5年の村高は370石余,反別44町(田23町・畑11町),税米190石余(庵治町史)同年学制発布に伴い地内浜に大仙小学校を開設,同7年には鎌野に北海学校,高尻に東洋学校が開設される同年庵治村の一部となる

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7428982