辞書一覧
検索結果一覧
6906件Hitしました
21から10件/6906件中
(近代)昭和61年〜現在の福岡市東区の大字名。もとは東区勝馬・志賀島の各一部。玄界灘と博多湾の境にある志賀島西部の沿海地域に位置する漁業集落。江戸期には弘浦と称し,すべての婦女が潜(かつぎ)をしたので海人浦(あまうら)ともいわれた(続風土記)。志賀島・勝馬両村の入会地で,福岡藩の浦方支配に属した。網漁を中心とする志賀島浦に対し,「かつぎ」を専業とする海人浦である。慶長10年の浦触に弘浦の名は見えないが,天和2年の官人来帰浦方記録に志賀浦とならび「海士浦」の名が見える。また元禄10年志賀浦と弘浦の浦境を定めた(松田文書)。寺社は,禅宗香音寺・天満宮。香音寺の本尊千手観音は筑前三十三観世音の1つで,第14番札所となっていた(筑陽記・筑前町村書上帳)。今泉市蔵は,代々漁業・運送業を営む富裕の人で,明和〜安永年間にかけて,志賀海神社に大般若経600巻を奉納,勝馬村の西福寺には釣鐘を,当浦の香音寺には百万遍の大数珠など多くの什器を寄進した。寛政年間頃,福岡藩では約2万斤の俵物(干鮑・干海鼠・鱶鰭)の請負いを課せられ,当浦は主に干鮑を納めていた。俵物は幕府の統制品であったから勝手な売買は禁じられ,わずかに疵貝や小貝が藩の許可を受けて売買された。当浦は秘伝の鮑の藻焼を製する者が1人あった(続風土記付録)。藻焼は煮貝(いでがい)とも称し,鮑に塩をふりかけて2〜3日間おいてよく洗い,海藻とともに湯煮して干すと,色黒く光沢が出て風味も良く珍重すべき名産品として将軍家にも献上されたという(筑豊沿海志)。文化4年8月1日,志賀島に宿泊した伊能忠敬は,翌2日弘浦辺を測量した。この時の日記に弘浦36軒と記している(測量日記)。文政3年の竈数73,土産は鮑,漁業は,春は若布,夏秋は鮑,冬は鰤,漁場抱区33町20間。また波戸1か所があり,長36間・横3間(筑前町村書上帳)。文政8年の人数366(男187・女179),うち山伏1,出家1。同年の産子10,死人7(明石文書)。明治初期の戸数81,人数399(男199・女200),職業別人口は農業が男115・女116,工業が男12,船40(小船1・漁船30・散波船9),波戸1(長36間・高18間・幅1間半〜2間),また漁家67,網数は鯔網2,海藻を多く得,土産は海魚・干鮑・鮑とある(地理全誌)。
次の10件