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天正11年柴田勝家を越前北庄に滅ぼした羽柴秀吉は,丹羽長秀に越前および若狭の一部並びに加賀の能美・江沼2郡を与え,その与力として小松に村上頼勝,大聖寺【だいしようじ】に溝口秀勝を配し,頼勝は小松に在城して能美郡6万6,000石を支配した。慶長3年に丹羽氏の後を領した堀秀治が越後転封すると,頼勝もこれに従い越後本庄に移った。小松には松任領主丹羽長重が入り,能美郡8万石,石川郡4万石を領地とした。ところが長重は関ケ原の風雲急を告げる頃,石田方に通じ,大聖寺の山口玄蕃宗永と結んで,金沢の加賀藩2代藩主前田利長の大聖寺攻めを側面から脅かした。そのため慶長5年所領を没収され,この分は前田利長に加増された。これによって能美郡の大部分は前田氏の手に帰した。しかし白山麓の牛首村(のちの白峰)など十六か村は,柴田勝家の越前からの攻略を受けて,天正3年以降は越前領に含まれ,白山争論の結果,尾添【おぞう】・荒谷【あらたに】の2か村を加えて,白山麓十八か村が,寛文8年以後幕府の直轄地とされており,美濃・飛騨の代官や越前本保【ほんぼ】陣屋が支配した。加賀藩3代藩主前田利常が退隠した寛永16年に,その三男利治に7万石が分封されて,支藩大聖寺藩が加賀藩から分立すると,能美郡南西部の6か村は大聖寺藩領となった。明治元年白山麓十八か村は福井藩,同4年には本保県となった。大聖寺藩と金沢藩が,同年金沢県,翌5年2月石川県となったあと,白山麓十八か村については加賀・越前両藩の寛文以来の争論を考慮し,同年11月に牛首以下18か村をすべて石川県とすることを太政官が指令した。ここで一向一揆の解体以降初めて能美郡全郡が同一の行政区画に属することとなったのである。江戸期には郡内は,粟津郷36村7垣内・軽海郷54村15垣内・苗代【のしろ】郷13村1垣内・板津郷45村12垣内・徳橋郷30村14垣内・山上郷59村17垣内,他に小松町等10町・白山麓18村9垣内,合計265村75垣内に区分されていた(三州志・能美郡誌)。藩は郡奉行を置いて郡を統轄し,その下に数村ごとに十村を置いた。そこで郷村名によらず十村名による組名も用いられた。八兵衛組(若杉村)・三右衛門組(今江村)・孫七組(寺井村)・与兵衛組(二曲村)・太右衛門組(犬丸村)・六郎兵衛組(土室村)・紋兵衛組(波佐谷村)・勘兵衛組(埴田村)・源右衛門組(沢村)・次郎左衛門組(釜清水村)の10組である(括弧内は十村の居住村)。十村は管内の農事・年貢から軽犯罪まで扱った。その下に各村の肝煎・組合頭・百姓代のいわゆる地方三役がいて,村々の農事・年貢から日常生活のことまで扱った。「旧高旧領取調帳」によれば,能美郡の総草高13万1,299石72余,うち新高2,080石6余,以上のうち大聖寺藩領5,615石22,幕府領251石46を差し引いた加賀藩領能美郡の草高は12万5,433石余である。農業の発展上特筆すべきは加賀藩3代藩主前田利常の改作法である。年貢の徴収を年々の見立てによる検見法から,数年の平均による定免法に改め,給人の農民支配をなくし,十村や改作奉行の制度を整備するこの法は,農民の耕作意欲を高め,手上高も多くなり特産物のとりたてを容易にした。米麦等のほか八幡【やはた】・若杉・沖・打越【うちこし】・不動島の5村に起こった藺は茣蓙や藺莚・畳表となり,利常以来歴代藩主の奨励保護を得た。茶も万治年間に始まり,元禄には藩主みずから山城より茶種を取り寄せ製茶を長谷部理右衛門に命じている。絹織物は文明の「廻国雑記」にすでに現れているが,利常は桑木の栽培を勧め,絹羽二重の製法を各地より学ばせ,寛永14年には絹道会所を設立しており,幕末にはつむぎも産出していた。このほか当郡の特産には明和7・8年に開かれた金平【かねひら】金山があり,天明元年には7貫余の金を産出,山中に小都市を出現したが,文政2年頃から衰えた。また安永の頃肥前から迎えた本多貞吉の始めた若杉焼,天保末年粟生屋源右衛門の蓮台寺窯,その発展した本江【ほんごう】・佐野・小野の九谷焼は九谷庄三・斎田伊三郎らのすぐれた陶画とあいまって,今日の小松・寺井の九谷焼の発展の基礎を築いた。江戸期から町立てとなっていたのは小松・安宅【あたか】・湊の3町である。小松城は前田利常が寛永16年〜万治元年まで在城した養老領22万石の城郭で,元和の一国一城令の例外として築城が認められ,利常死後も明和8年まで城代が派遣されていた。そのため小松町は城下町の趣も残り,その上,絹や藺・茶・九谷焼の中心地となり享保年間に1,501戸・1万554人の人口を有した。安宅は小松の外港で,北前船による蝦夷地との交易が発達し,明治30年代までニシンや〆粕の移入港となっており,米屋・土門屋・北野屋・松村屋など多くの船主が活躍した。湊は天保14年町立てとなった港町で,文化文政期には500〜700石積の船42隻,800〜900石積12隻,1,000石積10隻を有し,戸数300戸に及んだ。江戸期を通じ一向一揆のような強力な一揆はなかったが,明和5年の水害による免租を求めた騒動や,凶作による米価の高騰に対する文化5年・天保7年の打毀しは,封建制支配の矛盾の拡大とあいまって,明治維新を迎える露払いとなった。
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