100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

生田原
【いくたはら】


古くはイタラ・イタラプトと称した。網走地方中央南部,湧別川支流生田原川流域。イタラはアイヌ語イクタラの訛りで「笹」を意味する(北海道蝦夷語地名解)。地名はイクタラに「原に田を生む」の意の漢字をあてたものという。松浦武四郎「戊午日誌」には「人家は往昔有りし由也」とあるが,間宮林蔵蝦夷図には「夷人居住地」の記号がないので,文化初年以前にアイヌは湧別川下流へ移動を余儀なくされたものと思われる。明治34年に植民地区画測設を行って開放され,同年郵便継立所が設けられ佐藤文八が取扱人となった。これが和人居住の最初である。同36年安立啓三郎が入植したのをはじめとして,農場や個人入植者が相次ぎ,同41年生野特別教授場,同43年生田原特別教授場開設。明治39年湧別村に二級町村制が施かれ,同村内は21部に分けられ,当地は第18部(上野上)に含まれた。同43年上湧別村の分村によって上湧別村域となり,地内の行政区は湧別原野44号以南イクタラ原野境までが第13部,イクタラ原野一円が第14部となる。大正3年第14部のうちイクタラ原野8号以南を分割し第19部とした。同4年第13部は下生田原・生野の2部に,第14部は上生田原,第19部は奥生田原となった。大正3年野付牛(現北見市)からの湧別軽便線(現石北本線)が開通し,上生田原(現生田原),下生田原(現安国)の2駅が置かれ,駅周辺に市街地が形成された。地内の戸数は大正元年300戸,同7年には909戸に急増。市街地の戸数・人口も,下生田原は大正3年の50戸・275人が同7年140戸・694人に,上生田原は同じく30戸・146人から262戸・1,310人に増えている(上湧別村誌)。大正5年奥生田原のうちウラシマナイ川流域を含めて西生田原を分割した。同8年遠軽(えんがる)村の分村によって同村域となる。同11年の戸数1,000・人口4,500(分村請願書)。湧別軽便線は大正5年下湧別まで開通したが,同11年旭川と同線を結ぶ国鉄石北線建設計画が発表になると,生田原側と遠軽側との間で激烈な分岐点争奪陳情運動が展開された。結果は遠軽が分岐点となったが,これによる対立も一因となって,生田原側に分村運動が起こり,同14年遠軽村から湧別原野44号以南とイクタラ原野一円を分割し生田原村となる。
【生田原村(近代)】 大正14年~昭和29年の紋別郡の自治体名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7000487