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志苔館
【しのりだて】


志濃里館とも書いた。函館市志海苔町にある中世の城郭。道南十二館の1つ。函館市の東部,函館空港滑走路の南側の津軽海峡に面した標高25mの海岸段丘上に築かれた平山城。昭和9年国史跡に指定。長禄元年のコシャマインの蜂起で,小林太郎左衛門尉良景の拠る志苔館は落城したという(新羅之記録/新北海道史7)。小林良景の祖先は上野国に住し,祖父次郎重弘の時に蝦夷地に渡ったという。蜂起後,良景は志苔館主として復帰したとみられ,永正9年アイヌの攻撃により,小林良景の子良定の拠る志苔館は落城し,館主良定は戦死(同前)。良定の子良治は永正11年蠣崎光広に仕え,松前に移り,志苔館は廃され,その後の史料にも見えないが,使用され続けた可能性は否定できない。「東日流外三郡誌」は志苔館が南北朝末期に存在したことを記す。同書の信憑性は低いが,鎌倉末期の「庭訓往来」には館の所在地付近の宇賀昆布が流通したことが記され,館の構築年代は南北朝期にさかのぼることは考えられる。館跡は段丘上の南端にあり,形はほぼ長方形,東西に長く,四方に土塁を築き,郭内は,東西70~80m,南北50~65mで,面積は約4,100m(^2),北から南にわずかに傾斜する。土塁は郭内との比高は北側で4~4.5m,南側で1~1.5m,土塁の頂上には幅約2mの平坦部がある。土塁は西と南の中央,南西角の3か所で切れ,西側が大手虎口の役割を果たしていた。幅10~15mの土塁に隔てられる郭外は,北側が幅5~10mの堀,東側が渓沢を挟み,段丘の平坦部につながる。西側は幅5~10mの二重堀と,幅約10m・比高1~3mの土塁が続き,志海苔川河口に面する。南側は海に面して急傾斜地となり,志海苔漁港や志海苔の市街地が広がる海岸線に続く。沢を挟んだ東側には,屈曲した土塁が残り,出城の役割を果たす郭があったとみられる。館跡は昭和42年に試掘調査,昭和58~60年に発掘調査と整備が行われた。史跡指定範囲は,郭内・土塁・堀および周辺部の約2万m(^2)にわたり,掘立柱建物跡6・礎石建物跡1・溝状遺構19・柱穴列8・竪穴様遺構4・ピット(土礦)7・カマド様遺構1・井戸跡1のほか,郭外からは門跡遺構2・橋脚跡遺構2・濠跡・土橋・土塁などが検出された。建物跡の柱間寸法には7尺・6.5尺・6尺の3種の基本単位が認められ,建築年代は少なくとも3期に分かれると推定される。7尺の柱間は中世,6尺の柱間は礎石を伴うことから,近世のものとみられる。出土遺物には,青磁・白磁,瀬戸・越前・珠洲系などの陶磁器類,金属製品・石製品・木製品などがある。昭和43年7月16日,志苔館の直下約100mから37万4,000余枚の古銭が発見された。その多くは中国の渡来銭で,上限は前漢の四銖半両の紀元前175年,下限は洪武通宝の1368年で,日本の鋳造銭は13枚であった。古銭は3つの甕に入っており,1号・2号とも越前古窯第Ⅲ期,3号は珠洲窯第Ⅲ期のもの。発掘調査の結果,志苔館の構築時期は14世紀末頃の南北朝末期とみられ,構築方法は大部分本州のものと関連し,出土遺物も,本州の日本海側の城館跡の遺物と共通するものが多い。志苔館の南側の海岸は,船舶の停泊が容易で,志苔館の館主は,日本海沿岸を通じて交易を行っていたとみられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7003690