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下湧別村
【しもゆうべつむら】


(近代)明治43年~昭和28年の紋別郡の自治体名。湧別村が改称し,二級町村として成立。同時に戸口の増加と村役場から隔絶しているため,一部が上湧別村として分村。大字は編成せず。網走地方中部,湧別川下流域。昭和8年以降の資料には,湧別原野・バロー原野・ケロチ原野・シュブノツナイ原野・トコタン原野,同23年にはトエトコ原野の通称字が見える。成立時の戸数864・人口4,209。明治43年村役場を湧別市街地の旧湧別村役場に置き,行政区画は旧村の部制を継承し,村内を12部とした。同年4号線郵便局が開局,大正9年廃止。農業・漁業を基幹産業とし,その後農業移住者が増加。大正5年湧別線も開通,分村によって半減した戸口は,同6年1,717戸・7,518人,同14年1,863世帯・1万1,417人と急速に増加。行政区画は昭和3年14部となったが,昭和2年部制から区制に変わったのに伴い,同4年湧別市街・トエトコ・芭露など14区が設けられた。同年湧別軌道敷設,貨客輸送を開始したが,同13年廃止。明治44年村会はサロマ湖から湧別浜までの運河開削を議決し,大正10年着工。人力のみの作業で約4kmを掘削して中断。サロマ湖口は従来東端の常呂(ところ)側にあり,そのため湖に面した湧別の漁家は湖内漁業に限定されていたが,昭和4年常呂との境の砂州を掘削して湖と外海とを通水し,外海漁業に転機をもたらした。世帯数・人口は同12年1,959・1万2,276。同15年一級町村。同16年「部落会町内会整備要領」が出され,区長制を廃して14部落会・1町内会を組織。水稲は明治31年学田と屯田兵村で試作され,大正11年62町歩,昭和8年には425町歩・収量6,549石を示したが,冷害の影響からその後は漸減。明治31年に学田農場に山形県から入植した小山田利七により始められたハッカ栽培は,明治36年頃には当村が北海道のハッカ相場地となった。当時,海外市場にも「北見ハッカ」として知られ,換金上の優越性,耕作上の簡便さなどにより,その栽培はさらに広まった。しかし,ハッカ相場は大手商人に独占される傾向にあり,明治45年にはサミュエル事件という秘密協約事件も起きた。その後,第1次大戦の影響で作付けが半減し,第2次大戦後も多少ハッカ栽培に対する関心がよみがえったが,外国産ハッカが輸入され生産は伸びなやんだ。昭和2年の職業別戸数は農業893・商工業216・水産業190・その他186。同17年湧別浜に機雷が漂着,爆破作業中に暴発。106人が即死,重軽傷者26人という惨事を呈したが,報道管制により一般には報道されなかった。戦後外地引揚者や緊急開拓者受入れなどにより,世帯数・人口は同25年2,343・1万4,747を数えた。同年地内の床丹を佐呂間村に編入。部落会町内会は昭和22年に廃止,村は15地区に駐在員を任命した。同27年の世帯数2,286・人口1万3,871,うち中心市街710・4,008,商工業者612・3,396。同28年湧別町と改称。




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「角川日本地名大辞典」
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