八幡丘
【やはたおか】

(近代)昭和41年~現在の富良野市の地区名。もとは富良野町の一部。地内は八幡丘・東富丘・西富丘・富丘更生に分かれる。地名は,当地域の一部を占めた本間牧場の牧場主本間豊七が,大正3年農地開放の際に命名したという。八幡丘の地区は明治45年星野農場が設置され,開拓が始まる。大正3年には戸数22となり,私立八幡丘簡易教育所が開校。大正中期,第1次大戦の影響による豆景気を契機に急速に開墾が進み,豆成金も続出。大正6年教育所は八幡丘尋常小学校として独立。同8年48戸・263人となる。しかし豆景気以後,丘陵地であるために地味が肥沃でなく,交通が不便で飲料水の確保が容易でなかったために,大正10年には戸数は半減。同11年からは適地作物として除虫菊の栽培が開始されて,昭和9年には耕地の7割に達した。同年,星野農場は民有未墾地として小作に開放。昭和26~28年富良野市街に通じる新道が開削され,同32年にはバスが運行。戦後は主にジャガイモ・ビートなどが作付けされたが,昭和43年道営パイロット事業が着手されて富良野市を代表する酪農地帯に変貌。また,同事業により上水道が敷設された。戸数・人口は,昭和38年42・222,同48年27・110。同年,八幡丘小学校は富良野東小学校に統合。同50年の世帯数19・人口62。富丘の地域は,布礼別地区を中心に開設された本間牧場の一部として開拓が始まる。亜麻・小麦・燕麦・大麦・ジャガイモが主要作物で,大正5~8年頃にはアオエンドウ・ナタネが作付けされた。昭和4・6・9年に農地開放が行われ,同35年富丘簡易水道完成。世帯数・人口は,同35年72・388,同50年42・209。なお東富丘の一部はかつてからベベルイと称され,開拓期には現上富良野町倍本地区・中富良野町本幸地区の各一部を含む一帯をベベルイと総称した。アイヌ語のペペルイ(水があちこちにたまっている所)に由来し(富良野地方史など),江戸期の松浦武四郎「戊午日誌」に「ベヾルイ」と見える。大正6年には布礼別小学校ベベルイ教授所設置,同9年にはベベルイ地域として31戸・156人を数えたが,豆景気が終ると人口も減少。離農が進み,昭和46年同地域は無人となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7009164 |