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七戸通
【しちのへどおり】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期の盛岡藩の通名。同藩の郷村支配のための地方行政区域の1つ。北郡のうち。「邦内郷村志」では七戸県と見える。当通の設置年代は未詳であるが,寛文4年七戸城主南部重信が盛岡藩第29代当主として盛岡城に移って以来,七戸は盛岡藩直轄地となり,また同5年七戸代官野辺地忠左衛門と藤村源兵衛が野辺地代官を兼任し(内史略・郷村古実見聞記),さらに「邦内貢賦記」の天和2年と推定される記事に当通の名が記載されていることから,寛文~天和年間に成立したものと考えられる。「岩手県史」5では,寛文6年~天和3年の総検地実施過程で確定されていったものと推定している。「邦内貢賦記」によれば,所属の村は新館・野崎・附田・花松・中岫(中畑は誤り)・榎林・二ツ森・大沢(大沢田)・馬洗場・八斗沢・甲地・三本木・洞内・大浦・天間館・倉内・平沼・鷹架・尾駮・泊り・横浜・出戸・七戸(五戸は誤り)・野辺地の24か村,惣高は4,067石余。当時の七戸通は,まだ後の野辺地通にあたる地域を含み,七戸代官が野辺地地域を管轄していた。しかし,元禄4年七戸代官野辺地忠左衛門が野辺地代官兼任を辞退したので,はじめて専任の野辺地代官が置かれ,七戸給人の西野八右衛門がその職につき,当通のうち横浜・野辺地の2か村が七戸代官管区から分離された(内史略)。「邦内郷村志」によると,所属村は前記24か村のうち横浜・野辺地の2か村は野辺地通に移管され,甲地村は記載漏れとなって見えないが,あらたに上野・立崎・深持の3か村が加わり,計24か村,総高は5,748石余で,うち給地1,372石余・寺社領114石余,安永9年の戸数2,330,寛政9年の馬数5,785。「本枝村付並位付」では,享和3年の村はあらたに法量・甲地2か村が加わり,計26か村,家数1,520。家数の45%減は天明の飢饉の影響によると考えられる。天保7年の七戸惣郷村名附では,七戸通を,さらに御町通(七戸本村)・上川目通(七戸川上流流域にある七戸村支村)・南川目通(七戸川南方の新館村・上野村・立崎村・大沢田村・馬洗場村)・北川目通(七戸川北方の中岫村・野崎村・花松村・二ツ森村・榎林村・甲地村)・北山通(甲地村の支村)・天間館通(天間館村)・洞内通(洞内村)・深持通(深持村)・法量通(法量村)・三本木通(三本木村)・東通(東郷通ともいう。倉内村・平沼村・鷹架村・尾駮村・出戸村・泊村)・の11の通に分けている。これには南川目通に入るべき八斗沢村が脱漏しているが,これを入れると「本枝村付並位付」と等しく26か村となる。「天保8年御蔵給所書上帳」では村は奥瀬が加わり,法量・深持2か村が見えず,計25か村,総高は5,848石余,うち御蔵高4,159石余・給所高1,689石余。七戸通全体を統轄するため,通の中心である七戸村に代官所が置かれ,代官2名が交代で勤務し,その下役以下は七戸給人(郷士)が勤めた。文久元年の在々御給人帳によれば,当時の七戸通の給人数は,100石以上1人・50~99石10人・10~49石45人・5~9.9石54人・1~4.9石75人,計185人と零細給人が多かった。村役人としては,七戸宿に複数の宿老,御町通に検断,上川目・南川目・北川目の3通には大肝入,その他の通には肝入が置かれた。万延2年七戸通御代官所御役高書上帳によれば,村数に変わりはないが深持村および法量村は北奥瀬通と改称され,この時の総高は6,428石余。明治2年七戸藩創設に際し交付された「陸奥国北郡之内郷村高帳」によれば,七戸藩すなわち七戸通の村々は,前記26か村から法量村を除いた25か村に,新たに従来五戸通に属していた切田・柳町・小平・靏喰・上吉田・下吉田・犬落瀬・相坂・折茂・下田・百石・天ケ森および沢田村の一部の計13か村を加えた38か村,総高は1万384石余であった。産業は農業・畜産業が中心で,一部に水産業が行われたが,水稲は限界生産地帯にあったため凶作の発生率が多く,特に元禄7~8年・宝暦5年・天明3~4年・天保3~10年は大飢饉となった。そのため雑穀生産が盛んで,特に大豆は南部大豆と呼ばれ,大坂に出荷された。畜産は馬が中心で,古来南部馬の名で呼ばれ,藩牧としては有戸牧であったほか七戸通の各村は黒馬の出所としても著名であった。その他の産物は,延享元年の御領中産物,「邦内郷村志」,文政4年の南部盛岡藩御領分産物書上帳,安政6年の御国産物細見などによれば,紫草・茜草・黄連その他の薬草類,蕨粉・葛粉・かたくり粉・薯蕷・椎茸などの食料品,昆布その他の海草類,鮭・鱒その他の魚類,鮑・ウニなどがあった。盛岡藩は百姓一揆最多発藩として知られているが,七戸通では江戸期4県・明治3年1件の計5件が数えられる。延享2年夏の一揆は,南川目通大沢田村の知行地百姓48人が連判の上徒党を組み,地頭である給人2名を排斥し,御蔵百姓となることを願って藩に強訴しようと小繋番所を押し通り,沼宮内(現岩手県岩手町)に達したところで七戸代官によって連れ戻された事件である。首謀者2名は打首獄門,参加百姓もそれぞれ処分され,代官も閉門処分に付されたが,排斥を受けた給人には何のとがめもなく,一揆はその目的を達しなかった。寛政8年6月の一揆は,七戸通惣百姓による馬の売買税増税に対する反対一揆であった。七戸通では元来,市場に出さないで自由に売買できる牝馬の売買税は一頭につき100文の定であったが,明和7年以来は百姓救済のためこれを50文に減じていた。ところが,寛政元年藩はこれを100文に増額した。これに対し,惣百姓は,連年の凶作と金銭の不通用とを理由に再び50文に戻すことを愁訴した。この愁訴は,折しも盛岡藩領全域に発生し成功をおさめていた百姓一揆に触発されたものであった。藩もそれらの事情を際して百姓の願いを聞き入れたので,強訴にまでは発展しなかった。嘉永6年5月の一揆は,夫伝馬税の公平賦課要求の一揆であった。南川目通の御蔵百姓たちが激増する夫伝馬税の負担に耐えかね,これを公平に知行地百姓にも課すよう七戸代官所に願い出たが,一向に藩の許可がないのは代官所の怠慢のせいであるとし,この上は藩当局へ直訴すると強訴し,代官所から藩当局へ使者を送らせるのに成功した事件である。この年は盛岡藩全領に百姓一揆が発生した年であり,その大規模化を恐れた藩はこの要求をいれたので,この夫伝馬税の公平賦課要求の一揆は一応鎮静した。嘉永6年7月の一揆は別段御買上大豆反対の総百姓一揆であった。同年5月の南川目通の夫伝馬税の公平賦課要求一揆は一応鎮静したが,七戸通はそのほかにも幾多の問題を抱えていた。その最大のものは,特産である大豆の藩による買上問題であった。藩は,百姓のためと称して御用大豆を買上げ,これを大坂に送っていたが,その百姓への買上代金の支払は滞りがちであった。藩は,これに加えて別段御買上大豆・奥御国産御買入大豆等の名目で莫大な量の大豆を強制的に買上げ,しかもその代金は数か年分も滞るのが常であった。たまりかねた七戸通の惣百姓が7月18日主として別段御買上大豆・奥御国産御買入大豆の買上中止を要求し,江戸期の七戸通最大の総百姓一揆に発展した。代官所役人の相手では埒があかないというので大挙盛岡城下に直訴しようと出立したが,境松付近で七戸代官所役人に説得されて一応鎮静したが,3日後に盛岡から役人が到着し,要求のほとんどが叶えられたのでそれ以上の発展はなかった。明治3年閏10月七戸藩成立後におきた七戸通総百姓一揆は,いわば新政反対一揆とでもいうべきものであった。明治2年七戸藩創設後も七戸通の名称は残り,七戸通の名称が消滅した正確な時期ははっきりしないが,明治4年7月,廃藩置県により七戸藩が七戸県となった頃ではないかと思われる。南川目通などの下級の通名は明治5年の公文書にも使用されており,その終期は判然としない。当通の村々は青森県第7大区2・3・4・6小区に属している。現在の上北郡七戸町全域と十和田市,上北郡上北町・天間林村・東北町・六ケ所村の各一部にあたる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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