七戸藩
【しちのへはん】
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(近代)明治2~4年の藩名。陸奥国北郡のうちを領有した外様極小藩。盛岡藩の支藩で,はじめ盛岡新田藩と称したという説のほか,元禄7年南部重信の六男政信が宗家である盛岡藩南部氏から蔵米5,000俵を分知されて寄合の旗本に列せられていたが,文政2年信鄰が宗家南部利敬からさらに蔵米6,000俵を分知され,合わせて1万1,000石となり代名に昇格して成立したという説もある。またこののちも南部氏は江戸定府の大名として存続し,信鄰のあと,安政5年信誉が城主格に列せられ,同6年城地を北郡三本木に指定され立藩したともいう。また文久3年信民が三本木村に陣屋を創設し,蔵米から地方への変換が行われ,七戸通6,700石と五戸通14か村(13か村とも)・4,300石の合わせて1万1,000石の所領が確定し,立藩したというが(国誌・七戸藩庁日記),時期を文久3年と確定はできない。通常,藩名は,参勤交代を行う大名の城地(居所)・陣屋の所在地にちなみ,便宜上命名されるものだが,当南部氏は定府大名のため,一般的には盛岡新田藩(府藩県制史),ないし明治2年の藩庁の七戸村への実質的配置にちなみ,大名昇格時点までさかのぼったり,城主格昇格時あるいは陣屋地決定時までさかのぼって七戸藩と通称される場合が多いようである。しかし,実際上文久3年の陣屋創設説は,前年幕府が江戸定府の大名の在所への移動を許可したことに基づき(続徳川実紀),宗家南部利剛が信民の陣屋地を幕府に報告したことに端を発している(雑書)。また,「雑書」の明治元年11月25日の条に藩主信民につき「本家南部美濃守内分南部美作守信民,城主格,陣屋地本家領分北郡三本木」と朝廷に報告したとの記載があるように,実際には所領・陣屋地ともに家宗の所領内で名目上与えられたものにすぎなかった。しかも,当藩の所領が確定されていなかった事情は,戊辰戦争の処理のあり方からうかがうことができる。当藩主南部信民は,戊辰戦争に際して宗家に従い奥羽越列藩同盟に加わり,賊軍の汚名をきせられ,1,000石の減封の上,隠居を命じられた。家督は盛岡藩主利恭の弟信方に1万石を下賜されることで相続された。ところが,明治2年正月新政府の役人林権判事は信民を1,000石の減封処分とするについて,信民を所領のある大名と誤認していた。そのことに気づいた折衝役の盛岡藩郡奉行新渡戸伝が,当藩は文久3年陣屋地が定まったと幕府に報告したことを根拠とし,所領も追々定められたと虚偽の報告をして当藩安堵を達成したというのである(新渡戸伝一生記)。したがって「雑書」等に所領の確定について裏付ける記載はない。さらに新渡戸は,林に対して所領は存在したが蔵米支給であったため三本木には何らの施設もないと申し立て,仮屋のある七戸村に藩庁を創設する許可も得た。明治2年2月13日旧七戸城の普請に着手し,同年4月信方の所領と信民の減封1,000石の所領を内定して行政官へ届けた。これに基づき同年5月「陸奥国北郡之内郷村高帳」が交付され,ここに名実ともにそなわった七戸藩が誕生したといえる。藩領は,陸奥国北郡のうちに設けられ,「陸奥国北郡之内郷村高帳」によれば切田村475石余・柳町村65石余・小平村159石余・靏喰村179石余・上吉田村333石余・下吉田村105石余・犬落瀬(いぬおとせ)村333石余・相坂村667村余・折茂村330石余・下田村852石余・百石(ももいし)村324村余・天ケ森村3石余・七戸村1,643石余・新館村335村余・上野村227石余・馬洗場村30石余・八斗沢村90石余・立崎村110石余・大沢田村267石余・野崎村175石余・中岫(なかぐき)村66石余・花松村21石余・附田村70石余・榎林村301石余・甲地(かつち)村497石余・二ツ森村75石余・大浦村816石余・河内村412石余・三本木村83石余・天間館村740石余・深持村302石余・平沼村35石余・鷹架村19石余・尾駮(おぶち)村32石余・出戸村16石余・泊村34石余・倉内村27石余・沢田村のうち315石余の計38か村・1万384石余であった(なお,「旧高旧領」ではこのうち天間館・野崎・中岫の3か村は斗南(となみ)藩領と誤記されている)。このうち,切田・柳町・小平・靏喰・上吉田・下吉田・犬落瀬・相坂・折茂・下田・百石・天ケ森・沢田の計13か村は,七戸藩領創設に伴い,五戸通から分かれて七戸通に加えられたもので,残り25か村は旧来から七戸通に属した村々であった。この五戸通13か村が七戸藩に編入されたことが翌3年の七戸通総百姓一揆の一原因となった。これより先,明治2年6月七戸藩主南部信方は東京にあって版籍を奉還し,同月24日七戸藩知事に任ぜられた。同日信方の七戸入部に先立って家臣57名が義父で隠居していた南部信民とともに東京から七戸に到着し,信方は遅れて8月17日に七戸へ着いた。江戸期七戸通には100数十名に上る盛岡藩七戸給人がいて,七戸代官所内で地方行政の一翼を担っていたが,戊辰戦争に際し盛岡藩が賊軍となり白石に転封されたのに伴い,明治2年4月その族禄を没収された。同5月歎願によってこれら七戸給人の族禄が復され,信方の家臣となることも許されたが,すべて無禄であったので無禄士族と呼ばれた。これに対し,東京から来た信方の家臣は江戸士族と呼ばれた。江戸士族には優れた人材が多く,はじめ江戸士族だけで藩務をとった。しかし,まったく未知の土地へ来た江戸士族だけでは幕末から維新にかけての混乱した,しかも新藩の藩政を執行することは困難であった。そのため同2年8月七戸地方の事情に詳しい旧七戸給人である盛田弓人・盛田勇人・浦田寛平・野辺地弘志などを七戸民政所(藩庁)筆生として登用し,村民との接触に当たらせた。藩の職制が定まったのは同2年12月で,七戸藩大参事新渡戸伝,権大参事馬場軍八・谷川林平以下,少参事・権少参事・民事督務・刑事督務・公用人・家令・家扶・家従などが置かれた。これらの役職についたのは最高の地位である大参事新渡戸伝が旧盛岡藩士であるのを除いてすべて江戸士族であったが,例外的に前記4名は依然その任にあった。維新政府の方針を体した藩の施政方針は旧盛岡藩領時代より厳しかった。維新により七戸藩が成立し,生活が苦しくなったことへの農民の反感は,直接農民との接触に当たっている前記4名へまず向けられた。藩は明治3年正月,ついにこの4名を罷免せざるを得なかった。しかし,この4名は七戸藩にとってぜひ必要な人であったので同年9月には復職させた。そして同3年閏10月2日職制の変更を中心とした藩政改革を行い,大属(その下に民事係・刑事係をおく)・権大属・少属・権少属・職掌・駅逓係・牛馬係を置き,権少属に盛田勇八・盛田弓人・工藤隆太を,牛馬係に三浦庄七・野辺地弘従らを登用した。一方,村支配の機構は七戸藩の存在期間中は旧盛岡藩政下と変わりなく,七戸本村(御町通)には検断と宿老が置かれ,下級の通のうち大きな通には大肝入が,小さな下級の通と村には肝入が置かれ,大肝入・肝入の下には老名が置かれた。藩主信方の義父信民は幼少の信方を助け,藩校を興し,漢学・英学を教授するとともに,牧畜・養蚕・馬鈴薯・菜種の栽培など産業の振興につくした。これらはいずれものちの七戸地方の重要産業となった。当藩最初の検地は七戸給人から登用された人たちによって実施された。元来七戸通は寛文年間以来検地が行われず,また畑1反歩は900坪とされるほど生産力が低いため年貢の自主申告制が認められるほどであった。そこへ維新政府の画一的政策に基づく検地が行われることは耐えられないことであった。しかも明治2年は大凶作であった。藩政に対する不満は明治2年秋頃から始まっていたが,同年閏10月22日まず五戸通から七戸藩に編入された13か村が一揆を起こし,翌23日には旧来の七戸通25か村も合流し,翌24日には七戸通最大の,しかも明治期の青森県唯一の総百姓一揆となった。一揆の要求は,年貢減免,定例大豆の買上げ反対,大参事新渡戸伝の引渡し,旧七戸給人の七戸藩への登用反対,救助米の年賦償還,新田開発反対・検地反対等10か条であった。一揆は打毀を伴ったが,結局説得されて,年貢3分の1年延,定例大豆3分の1買上,救助米半納の3か条の要求に改め,藩はその実現に努力することを約し,一揆は収まった(七戸町史)。「藩制一覧」によれば,廃藩置県時の当藩の状況は,草高1万384石余,正租は米1,150石余・金174両余・銭3,695貫文余,雑税は金232両余・銭2,665貫文余,ほかに牛馬地払税金1,800両程,鰯・〆粕税銭60貫文,昆布・干鮑・煎海鼠税金300両,戸数2,994(うち士卒族290),人口1万5,527(男8,406・女7,121),神社22,常備兵1小隊・非常兵2小隊。明治4年7月14日の廃藩置県により七戸県となる。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7011151 |