斗南県
【となみけん】
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(近代)明治4年の県名。明治4年7月14日,廃藩置県により斗南藩領を継承して成立。県域は,陸奥国三戸郡内50か村・草高2万2,048石余,北郡内46か村・草高8,729石余,二戸郡内12か村・草高3,969石余の計112(108の誤りか)か村・草高3万4,747石余(県史8)。成立時の戸数1万5,240・人口7万5,467(岩手県史)。県庁は田名部(たなぶ)(斗南)町円通寺に設置。県政は,権大参事山川大蔵(浩),少参事広沢安任・永岡久茂・倉沢平治右衛門らが担当。弘前県への引継ぎ書類によれば,反別不詳,石高3万4,747石余,租税高は米7,310石余・金1万4,503円・銭1万2,489貫文(県史8)。旧斗南藩士族は,最初は3合扶持を給されたが,斗南県となってからは明治政府より4合扶持を給された。しかし,この4合扶持は政府の財政の都合上,明治6年に至り1人当たり金5円および米5俵(1石3円75銭の割で現金交付)を一時支給してその後は全廃となった。士族は将来の生活に困惑し,授産策も失敗した。会津に戻るものもあれば,警視庁の邏卒(巡査)を志願して上京するもの,屯田兵を志願して渡道するもの,三本木(現十和田市)の開拓地に移るものが続出した。田名部残留の士族は生活困窮の中にあったが生き長らえた。斗南が丘にあった士族長屋は,明治7年春の下風呂火事と石持火事の罹災者に売り払われて今は跡形もない(下北地方誌)。明治4年9月5日,当県は他の4県とともに弘前県に統合された。この弘前県への5県統合は,斗南県少参事広沢安任と八戸県大参事太田広城が南部地方の経済的窮乏を救うために政府に建言したことによるという。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7011966 |