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吉田村
【よしだむら】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期の村名。北郡のうち。相坂川(奥入瀬(おいらせ)川)中流右岸の平坦地に位置する。慶長19年5月27日の南部利直充行状に「六戸之内吉田村左近跡目六拾壱石九斗四升三合如前々令扶助候」と見え,吉田左近が利直から当地で61石余を安堵されている(系胤譜考/岩手県戦国期文書Ⅰ)。盛岡藩領。はじめ六戸のうち。天和3年盛岡藩の通制がほぼ確立した後は五戸通に属す。村高は,「正保郷村帳」109石余(田74石余・畑34石余),「貞享高辻帳」136石余,「天保郷帳」199石余,「安政高辻帳」160石余。当村は江戸中期に上吉田村と下吉田村に分村したと思われ,「邦内郷村志」「本枝村付並位村」「旧高旧領」などには上・下2か村に分かれて記される。藩領内では上・下2か村として把握されていたが,幕府の郷帳類へは吉田村1村として届け出ていたのであろう。江戸初期当村域に知行地を持つ給人は,慶長18年三戸聖寿寺石門和尚が長屋に17石余(宝翰類聚/岩手県戦国期文書Ⅰ),同19年吉田左近が吉田村に61石余(系胤譜考/岩手県戦国期文書Ⅰ),元和6年吉田弥次郎が上吉田に35石余の加増を受け95石余の知行となり(同前),同7年滝沢助五郎が「六戸之滝沢・吉田ニ,去年之検地ニおいて新田加増」され,合わせて286石余を知行した(滝沢氏系譜)。早くから新田開発が行われ,寛文2年以降,たびたび開発許可願が出されている(吉田家文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7013341