新田郷
【あらたのごう】

旧国名:陸奥
(中世)鎌倉期~南北朝期に見える郷名。和賀郡のうち。鎌倉末期の和賀氏系図(鬼柳文書)に和賀義行の「二女子」の譲得所帯として岳田郷などとともに「新田郷」が見える。二女子は他の和賀氏系図(同前)によれば,葛西清基の妻岡田女子として見える人物である。岡田女子の女は和賀景義を夫として迎えている。南北朝期の康永2年8月23日の石塔義房宛行状によれば,暦応4年北奥羽での南朝方との戦いで戦死した鬼柳清義の所領「新田郷」半分が「和賀三郎兵衛尉清義打死跡」として安堵され,残り半分は和賀一族の勲功を期待して和賀氏惣領和賀長義に宛行われた(鬼柳文書)。文和2年11月,足利尊氏と弟直義の対立(観応の擾乱)が直義の死で終結すると,直義派であった奥州管領吉良貞家は,奥州支配の強化を図った。南朝方の和賀行義の所領を北朝方の和賀惣領家に宛行ったのもこの時のことで,新田郷も,同じ時に清義の子和賀(鬼柳)彦次郎義勝に本知行として安堵されている(鬼柳文書文和2年11月1日付奥州管領吉良貞家奉書)。従って,新田郷は岡田女子から世代を経て鬼柳氏へ相伝されたことになる。江戸期の北鬼柳村荒田,現在の北上市大字北鬼柳字有田および同市有田町付近に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7013536 |