一関藩
【いちのせきはん】

旧国名:陸奥
(近世)江戸期の藩名。田村藩とも通称する。陸奥国磐井郡一関に居を構え,同地周辺を領有した外様小藩。万治3年伊達宗勝(兵部)が仙台藩4代藩主伊達綱村の後見に命じられ,仙台藩領内の磐井郡内において3万石を分与されて立藩した。しかし,寛文11年宗勝は伊達騒動のため除封され,当藩は一時廃藩となる。天和2年名取郡(宮城県)岩沼藩主田村建顕(3万石)が領地を磐井郡と栗原郡(宮城県)に3万石で移され,居所を一関に定めて当藩が再び立藩された。以後,田村氏は建顕―誠顕―村顕―村隆―村資―宗顕(敬顕)―邦顕―邦行―通顕―邦栄―崇顕と11代にわたって在封し,明治維新に至る。この田村氏歴代は右京・右京亮・右京大夫を名乗る者が多かった。田村氏は,もちろん幕府からは独立した大名として扱われたが,宗藩の仙台藩からは一門格として扱われ,宗藩からの諸規制もあり,諸制度も仙台藩に準じたものであった。領知は表高3万石で,貞享元年に幕府に届け出た「郡村知行高帳」によれば,本地2万3,588石余に新田7,984石余を加えて合計3万1,572石余。嘉永5年には高3万3,632石余(うち本地2万8,416石余)で,反別は田2万6,659石余・畑6,934石余(県史4)。領域は,磐井郡のうち西磐井地方11か村(一関・二関・三関・狐禅寺・滝沢・牧沢・鬼死骸・上黒沢・下黒沢・市野々・達古袋),流地方13か村(金沢・清水・中・湧津・峠・男沢・富沢・揚生(よう)・日形・蝦島・金森・上油田・下油田),東山地方11か村(寺沢・上奥玉・中奥玉・下奥玉・熊田倉・清水馬場・金田・摺沢・北小梨・南小梨・徳田),栗原郡のうち三迫(さんのはさま)地方2か村(有壁・片馬合)の計37か村。東山・流・西磐井にはそれぞれ大肝入が置かれ,地方支配の行政区画となっていた。一関には中世から俗に千畳敷と称する高崎城があり,田村氏もここに居所を構えた。一関城下は,一関村を中心に二関村・三関村地内にまたがって形成されていた。家臣団は広小路・中小路・川小路・八幡小路・吸川小路・裏小路・大槻小路・下小路・慈眼寺小路などの武家屋敷地に散在し,慶応2年の総家中数は597。町人町としては大町・地主町などがあった。宝永年間の幕府巡見使への回答書によると,城下は9か町からなっており,町人の家数137・人数約900,市日は5・19・22・29の日,江戸までの道法は111里という。また,領内の人数3万1,565(男1万7,991・女1万3,574),馬数500~600,名産は糒・子籠,米は石巻から江戸へ廻送され,海産物は気仙から来るという(県史4)。藩の年貢収納は,元文元年に米1万4,301石余・大豆1,731石余・金2,504両余で,これが中作の年の収納であった。天明3年の大凶作では年貢米収入は3,796石余と激減し,天保7年にはわずか560石にすぎず,酒田米などを買い入れなければならなかった。藩財政の窮乏は安永~文化年間に顕著となり,家臣への扶持米不足の場合には買米から充てたが,家臣団のなかには江戸勤番を拒否する者が出たほどである。こうしたなかで,寛政9年には大一揆が勃発し,文化年間には領内の人頭5,000人のうち1,000人が欠落し,645人が沽却百姓という状態であった。これに対して藩は倹約令を中心とする改革の動きもみせるが,有効な手段はとれなかった。維新変革に際しては,藩主邦栄は宗藩の仙台藩とともに奥羽列藩同盟に加わり,このため明治元年12月維新政府によって3,000石減封の処分をうけた。この減封に関しては明治2年3月行政官より指令があり,磐井郡東山のうち摺沢・寺沢・上奥玉・中奥玉・下奥玉・南小梨・北小梨の7か村を召し上げられ,残高を同郡山目・中里・前堀の3か村のうちに与えられた。また,減封処分とともに藩主邦栄の隠退も命じられ,田村氏は実弟田村鎮丸の相続を願い,許された。明治2年6月に藩主鎮丸は版籍を奉還し,一関藩知事に任命替えされ,かつ叙位任官して崇顕と名乗った。同年9月磐井郡東山のうち清水・馬場・金田・熊田倉(徳田)の4か村と栗原郡三迫のうち有壁・片馬合の2か村の計6か村が取り上げられ,これと交換に磐井郡西磐井のうち前堀・作瀬・赤荻・猪岡の4か村を与えられた。同3年の人口は,それぞれ家族も含めて,士族1,658・卒族1,149・庶人2万4,479の計2万7,286。同年6月の按察使府への書上によると,管内30か村・高3万340石余。天明年間に創設された藩校教成館は,明治2年教成寮と改めた。明治初年の「藩制一覧」によれば,表高2万7,000石,草高(内高)3万347石余,万延元年から元治元年までの5か年平均の年貢収納は,正租が米1万635石余・豆1,400石余・金1,170両余,雑税が金580両余,戸数4,595・人口2万6,123(男1万3,551・女1万2,572),うち士族の戸数333・人口1,658,卒族の戸数285・人口1,149,神社は24社(社人の戸数24・人口47),寺数は36か寺(僧56人)。明治4年7月14日,廃藩置県により一関県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7013614 |