高鞍荘
【たかくらのしょう】

旧国名:陸奥
(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。高倉荘とも書く。摂関家領荘園。三迫(さんのはさま)川の流域。現在の宮城県金成(かんなり)町付近の平野部が荘域とされる。ただし,荘域の一部は岩井郡の南西辺,現在の花泉町の近辺,いわゆる流二十四郷(あるいは十五郷とも)にまで及んだものとみられる。初見は左大臣藤原頼長の日記「台記」の仁平3年9月14日条である。同条によれば当荘の年貢本数(定額)は,金10両・布200反・細布10反・馬2疋で,荘の管理にあたる現地の責任者は平泉の藤原基衡であった。頼長は新たに金50両・布1,000反・馬3疋に増額するように要求したが,基衡はこれを了承せず,金10両・布300反・細布10反・馬3疋に止めてほしいとの意見を示した。頼長はそれに対して,「田多地広」の当荘が増額に応じられぬはずはないとして,金25両・布500反・馬3疋を改めて要求し,基衡もこれに従った。頼長に年貢増徴を勧めたのは,高鞍荘を預かる担当奉行の成隆朝臣らであったという。また,頼長が父の関白藤原忠実から所領を譲り受けたのは久安4年というから,摂関家領としての当荘の成立は12世紀前半にまで溯ることになる。高鞍荘の年貢増額の件は忠通の時にも問題になり,金50両・布1,000反・馬3疋の要求を基衡が拒んだということがあったという。「兵範記」保元2年3月29日条所載の同月25日太政官符によれば,左大臣頼長が保元の乱で敗死すると,当荘は没官の対象とされて後院領(皇室御領)となった。鎌倉期における当荘の領有関係については不明。南北朝期における奥州管領吉良・畠山両氏の争いに際して,「葛西れんせい(蓮昇カ)」の16番目の子,右馬助は吉良方について功名をあげ,三迫富沢の地を賜って,姓を富沢と称した。この富沢氏はそののち,「いせい(威勢)いやま(増)して」,「富沢三迫高倉庄七十三郷,西岩井のこほり三十三郷」の主になったという(余目氏旧記)。西岩井の南西辺,現在の花泉町近辺のいわゆる流二十四郷(十五郷とも)の村々は,いずれも高鞍荘の旧領内と称する。東永井・西永井・奈良坂・金沢・清水・金森・中村・上油田・下油田・蝦島・涌津・峠・男沢・日形・富沢・楊生(よう)などの村々である(安永風土記)。高鞍荘の領域は三迫川の流域平野のみならず,北上・金流両川流域の流地方にまで及んでいたものとみられる。ただし,三迫地域には高鞍の伝承は少なく,吾勝郷金田荘の旧域とする村々が多い(同前)。三迫は高鞍荘内に入らず,流二十四郷のみが荘域であったとする可能性もありうる(清水正健「荘園志料」はこの立場をとるか)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7015176 |




