盛岡県
【もりおかけん】
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(近代)明治3年7月10日~同5年1月8日の県名。岩手県の前身の1つ。明治2年7月22日に再興された盛岡藩が廃藩置県によって盛岡県となり成立。管轄は,岩手・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀の4郡で,江戸期の幕府への書上では13万石・162か村,同じく内高・領内村では16万1,000石余・242か村にあたる。同4年7月の戸口は3万3,976・13万7,825。県務は県大参事の東次郎・野田玉造,県小参事の北田貞治・佐藤昌蔵・石亀左司馬,奏任出仕の安宅正路らによって始められ,県庁は盛岡城二の丸,東京出張所は芝愛宕下三富小路の南部邸に置かれた。明治3年8月県務は3職5局から8懸の部署で遂行されるようになったが,同4年1月には審理・租税・出納・営繕・兵隊・開拓・県学の7分課になっていた。明治3年10月~同4年9月の歳出は米4万4,755石余・金7万2,046両となり,米の支出のうち士族俸米2万5,335石余・横浜高島嘉右衛門返済米7,635石余・南部家家禄米3,000石・庁中官禄2,498石・県常備兵用1,489石・厮養費1,264石・県学校費916石・旧藩兵手当505石・蔵場給与498石などが占めている。また金の支出のうちでは,御用達商人1万9,482両余,郷村8,305両,井筒屋善十郎ほか1名2,360両などの返済金,ほかに庁中諸費7,125両・庁中官禄1,914両・東京出張旅費5,895両・南部家禄1,000両・県常備隊諸費4,825両・県学諸費4,795両・検地諸入費2,690両などがある。この支出のうち江刺・胆沢(いさわ)両県への出兵諸費890両が含まれているが,これは明治3年の磐井郡東山地方の一揆鎮圧のための出動要請に対して出兵した時のものである。同年の県常備兵員は13歩兵小隊・砲兵一砲隊の1,367人,のち一時廃止されたが,翌4年11月には2個小隊が置かれていた。同年10月管内は39区に分けられ,1区に1郷社の原則がとられていたが,官吏・常備兵は既に同年3月には招魂社への公式参拝が命ぜられていた。県学関係では,明治3年10月作人館を改称した盛岡県学校があり,同4年正月には官費生200人・自費通学生500人を数え,また郷学校を併置していた。ほかに花巻郷学校・沼宮内郷学校が設置された。同年11月2日閉伊郡・九戸郡・和賀郡の江刺県分と紫波郡・九戸郡の青森県分を合併。草高約25万3,000石,村数494か村,人口31万9,486人の県となる。盛岡町字広小路の元南部従五位邸を県庁舎とし,同年11月17日開庁。県務は参事の島惟精,権参事の野田親孝,出仕の安宅正路らが高等官として執行した。同5年1月8日岩手県と改称。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7016307 |