雄勝城
【おがちじょう】

旧国名:陸奥,出羽
(古代)雄勝郡に築かれた城。雄勝村(雄勝郷)を中心に横手盆地の開拓経営基地となった重要施設。天平宝字3年に陸奥国桃生(ものう)城とともに按察使藤原朝獦(あさかり)によって築かれた(続日本紀)。雄勝柵とも称し,たびたび柵戸の配置があり,出羽国全体・奥羽全体という視野から見ても要鎮の1つ。西馬音内(にしもない)扇状地の扇端部に営まれ,羽後町新成(にいなり)地区がその場所と考えられる。土館(つちだて)の城神廻(じようしんめぐり)はその遺名を伝える。近くに雄勝郡衙のあったとみられる郡山もある。答合城(たこうじよう)とも呼ばれた(和名抄)といい,現在,高尾田という字名のあるのが注目される。延暦21年頃も越後国米1万600石・佐渡国塩120石が毎年この城に運ばれ鎮兵の食糧になった(日本紀略)ように,平安期に入っても重視され,元慶の乱には「雄勝城は十道を承くる大衝なり。国の要害最も此の地に在り」(三代実録)といわれ,乱後も秋田城・出羽国府とともに整備の上防備が固められ,「一府二城」と称せられる出羽国の最高級城柵であった(三代実録)。仁和3年出羽国府南遷の上申があった際にも,雄勝城などとの烽候接しなくなるとの理由で,申出は却下された(三代実録)。雄勝城遺跡候補地は雄勝地方になおいくつかあげられるところがあるが,羽後町元木(もとき)のように天平宝字以前の元柵があったとみられるところもあり,関連の機関施設が分置されたとみられるところもあり,時代を前後して建て替えられたと考えられたりすることもあるので,雄勝郷域遺跡なのであろう。仙北(せんぼく)郡仙北町払田(ほつた)の遺跡を雄勝城跡に擬する説も一部で強調されるが,この地は雄勝郡ではなく,その点からだけでも従いがたい。雄勝城はほぼ現在の雄勝郡域内にあったと限定して考えてよい。古代雄勝城の機能がいつまで続いたかは明確でないが,中世に小野寺氏一族の西馬音内城もこの地に営まれるから,この地の重要拠点としての性格は武家時代にも認められていたのである。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7020296 |