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柏沢渡し
【かしわざわわたし】


最上川が出羽山地を横断する最上峡のほぼ西端にある渡し。柏谷沢(かしやざわ)渡しともいう。東田川郡立川町の清川地区より2km上流に位置し,さらに上流には草薙温泉や白糸の滝などの景勝地がある。右岸にわずかに開けた平地に柏沢(柏谷沢)の集落があるが,西は柏谷沢として飽海(あくみ)郡松山町,東は柏沢として最上郡戸沢村に属し,行政区分以外はほぼ一集落の形態をとっている。この地区と,国鉄陸羽西線と国道47号の通る左岸とを結ぶ渡し。同地区は近年過疎化によって世帯数が減少しているが,藩政時代には新庄藩と庄内藩の境界にあたる重要な地区であった。柏谷沢村は右岸に位置しながら,松山藩領に属さず庄内藩領となっていた。東の新庄藩領柏沢村には舟道御改役御境番が置かれ,新庄から酒田への御用材改所もあるなど境の村として重視され,年々16俵の米を給されたほか,隔年ごとに年貢が免除されていた。最上川舟運が盛んであった近世には難船の救護や避難,薪水の供給地となった地区であり,背後に出羽山地が急壁をなし,他集落との連絡は川幅約300mの最上川の渡しに頼らざるをえず,今も丸太・玉石・柳柴で作った船着場が設けられている。現在の渡し船は数人乗りの小舟で,各家で所有しているが,近年までは全く手で漕ぐのみであった。対岸から他の者が柏沢に渡る場合は,大声で柏沢の目ざす家を呼び,その家から舟を出してもらう。夜中急病人が出た場合や冬季結氷期,上流からザイと呼ばれる氷や雪の塊が流れてくる場合は困難を極めた。こうした時には2艘の舟を横に結びつけて集落総出で漕ぐ。また対岸の田畑の耕作のために牛馬を渡す場合も近年まで同様の方法がとられた。集落内には戸沢村立古口小学校柏沢分校があり,左岸に居住する児童は渡し船で分校に通学している。昭和45年4月,分校より下校途中の児童8人と付き添いの教師2人を乗せた渡し船が転覆し,全員が濁流の最上川に投げ出された。児童は救命着を着用していたため,全員無事救助されたが,濁流の中で児童の救助に全力を使い果たした2教師は不帰の人となった。後日,2人の青年教師の尊い犠牲を悼み,国道47号沿いに「殉難の碑」が建てられた。昭和51年に,柏沢地区に白糸林道が開通し,立川町の清川橋まで車で往来ができるようになったが,渡しは現在も利用され,船には発動機が備えられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7024323