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松山藩
【まつやまはん】


旧国名:出羽

(近世)江戸期の藩名。譜代・小藩。遊佐(ゆざ)郡中山村(寛文4年松山と改称)に藩庁を置いた。はじめ無城,安永8年からは居城は松山。帝鑑の間詰。江戸屋敷は,はじめ浅草天王町屋敷,万治2年代官町鼠穴屋敷,貞享2年外桜田屋敷と移った。庄内藩主酒井忠勝の遺言により,三男忠恒に2万石が分知されて成立。正保4年12月幕府の許可があり,慶安2年に飽海(あくみ)・田川両郡に8,000石,村山郡に1万2,000石の領域が決定。その後寛文3年庄内藩18か村と松山藩11か村の交換があり,その結果飽海郡のうち28か村・5,215石余,田川郡のうち7か村・2,787石余,村山郡のうち74か村・1万2,000石余となる(両御代記)。さらに安永8年の加増により上野国(現群馬県)山田郡のうち2か村・1,001石余,同国勢多郡のうち11か村・4,063石余が加わり,総高約2万5,000石。忠恒―忠予―忠休―忠崇―忠礼―忠方―忠良―忠匡と継承。忠予の頃から藩財政は窮乏におちいり,忠休が延享4年奏者番,寛延元年寺社奉行兼務,同2年西丸若年寄,宝暦10年二丸若年寄,同11年若年寄と幕府要職につくことで,在府経費が年間3,000両から一挙に5,000両以上にふくれあがり,以後慢性的財政難となった。これに拍車をかけたのが相次ぐ凶作で,特に享保5年の洪水・虫付,宝暦5年の大旱魃,天明3年の大冷害,天保4年の洪水・極冷気は後世に語りつがれた。宝暦5年の飢饉は「大旱魃,道ニ青キ草ナク大凶作ニ成,翌年ニ至テ粮物ハ悉ク尽キ,米粃或ハ蕎麦ノ柯ヲ喰ヒ,又ハ敷古シタル藁莚ヲ粉ニシ喰ヒタリ……餓死セシモノモ有リ。米粃・河骨・人参ノ根等喰シモノ,後ニハ浮腫シテ死セシト聞ユ」(年代自記)という惨状であった。翌6年5月夫食米を要求して百姓300人ほどが,大庄屋宅に詰めかけるという事件もあった。町肝煎弥蔵が,鶴岡から松皮餅の製法を習い伝えたのもこの時である。さらにこの飢饉をはさんで,宝暦2年から同6年には,家臣の窮迫した生活を背景に,藩主忠休の退隠,忠休側近派の追放,家臣の救済を求める宝暦事件が起こった。これは庄内藩の力で解決されたが,以後家老・郡代・代官・元締など藩の中枢には庄内藩から付人が派遣され,藩政は庄内藩の統制下に入った。安永8年忠休の永年要職勤務の功に対し,上野国に5,000石加増とともに,松山築城が許され,天明4年から同8年の築城期間,左沢6,000石と田川郡幕府領との一時的村替えがあった。戊辰戦争では庄内藩と行動をともにし,総裁長坂欣之助を中心に新庄藩攻撃に参加した。さらに松山奇兵隊は,庄内藩一番隊とともに湯沢を占領したが,明治元年降伏。翌年上野国領地の返上を命ぜられた。松山の名は,古くは中山と称していたが,縁起をかついで,松山と改めたという。伊予国松山(現愛媛県松山市)と混同しやすいため,明治2年に松嶺と改め,松嶺藩と称した。この年藩校里仁館を開校。同4年廃藩となり,松嶺藩領は松嶺県・酒田県(第2次)・鶴岡県を経て,山形県に編入された。同5年大区小区制の施行により,旧松嶺藩領は第7大区第20~21小区となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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