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最上川
【もがみがわ】


旧国名:出羽

上流部を松川ともいう。県最南端から中央部を経て日本海に注ぐ延長22万4,488mの一級河川。源流は吾妻山地の東大巓(ひがしだいてん)(1,928m)。米沢盆地を北流し,鬼面(おもの)川・羽黒川・屋代(やしろ)川・吉野川・犬川などの支川を合流し,伊佐沢(いさざわ)地区(長井市)の狭窄部を通って長井盆地に入る。ここで置賜白川(おきたましらかわ)を合流し,ここから上流を松川とも称する。長井盆地の東辺を北流し置賜野川を合わせ,荒砥(あらと)地区(西置賜郡白鷹(しらたか)町)の北から五百川(いもがわ)峡に入る。五百川峡は25kmにわたって急流が続き,峡谷の南端に黒滝(くろたき),北端に佐倉瀬(さくらせ)の難所がある。左沢(あてらざわ)地区(西村山郡大江町)で山形盆地に出て,河流は東に向かい長崎地区(東村山郡中山町)から再び北流する。山形盆地では東部に立谷(たちや)川扇状地や乱(みだれ)川扇状地などの大扇状地があり,最上川は盆地西方を流れ,須川・寒河江(さがえ)川・乱川・村山野川などを合流する。村山市河島地区の碁点(ごてん)から最上川三難所の峡谷に入る。曲流が著しく碁点・三ケ瀬(みかのせ)・隼(早房)(はやぶさ)の難所がある。北村山郡大石田地区では尾花沢(おばなざわ)盆地の西方を流れ,丹生(にう)川を合流する。大石田から新庄盆地の西部まで曲流が続き,河岸が高く河流は盆地床を削る。この間最上小国(もがみおぐに)川・銅山川などを合流する。新庄盆地西端の本合海(もとあいかい)地区(新庄市)で流路を西にとり,鮭川を合流して古口(最上郡戸沢村)~清川(東田川郡立川町)間16kmの最上峡を通る。最上峡は山内(やまのうち)とも呼ばれ,両岸は標高600m以上の出羽山地で先行谷をなし,比高350mの急崖が続く。最上峡の出口で立谷沢川を合流し,庄内平野に出ると広い氾濫原を形成しながら相沢川・京田(きようでん)川・新井田(にいだ)川などを合流し,酒田市域で日本海に入る。河川名は出羽国最上郡に由来する。古くは「毛加美」と記したこともあり,「続日本紀」には和銅5年陸奥国から最上・置賜2郡をさいて出羽国に属させるとあり,この頃から最上の名称が用いられたと思われる。江戸期までは左沢より上流は松川,中流は最上川で,清川から下流が酒田川と呼ばれていた。最上川に統一されたのは明治9年山形県の統合以後である。流域面積7,040km(^2)。支流数406。最上川水系の総延長242万6,314m。最上川は本県を縦断して流れ,流域面積は県面積の75.5%を占める。流域面積の80%は山地で,平野部は20%弱にすぎない。流域の形は長軸がおよそ180km,短軸が70kmの長方形をなす。最上川は山形県内の各盆地を結び,主要都市がほとんど流域にあって,県内の社会・経済・文化の基盤となっている。盆地を連結する最上川の形態は,100万年前の第四紀に形成されたと思われる。第三紀末の鮮新世に従来内湾であったところが湖盆となり,中・下流は入江となって堆積が行われた。第四紀に地盤隆起によって出羽山地が形成され,また新庄と村山との湖盆が分化した。その後長井・米沢の各盆地が分化して,それらの盆地間をつなぐ流路ができた。後氷期の初め庄内平野は内海であったが,古い最上川のほかに赤川や日向(につこう)川などによって堆積が進み,三角州が形成され砂丘の間の水道が河口となった。こうして盆地を連結する形で完成した最上川は,流域の中に内陸性気候と海洋性気候の地域を含み,両者を含めて同時に豪雨のあることが少ない。また各盆地に小支川がいくつか集まることになり,大洪水は発生しにくいが盆地間の狭窄部付近で洪水となる場合が多い。狭窄部入口の長井・河島・古口などは洪水に襲われることが多かった。洪水をもたらす豪雨は梅雨前線によるものが全体の半分を占め,残りは台風によるものと温帯低気圧によるものである。また流域の大半を占める山地は積雪量が多いため,融雪による洪水も発生する。流域面積の増加は須川・寒河江川・鮭川などの大きい支川の合流によるもので,ここで洪水になることが多い。上流(松川)は羽黒川・鬼面川とともに河川の勾配が大で,礫も大きく荒れ川であり,扇状地を形成している。しかし米沢盆地床に入ると穏やかに蛇行し,氾濫原は広がり自然堤防もみられる。かつて水の状態がよいと標高214mの糠野目(ぬかのめ)(東置賜郡高畠町)まで舟運が行われた。長井の宮および荒砥の菖蒲(しようぶ)は,米沢藩の河港で年貢米などの積出しがなされたが,黒滝をはじめ五百川峡の難所が,元禄7年西村久左衛門によって開削されて以来である。五百川峡は川幅100m前後で河岸はもろい堆積岩からなり,河床に岩石が露出するなど最上川舟運時代には通行は困難であった。とくに勾配が急な所が何か所もあり,遡上するには綱でひかねばならなかった。左沢近くの中郷(なかごう)や,釜淵・どうぎなどの難所のある赤釜・大滝などは曳船集落を形成していた。この峡谷には河岸段丘が発達し,小盆地がいくつか形成されており,河川の旧流路による環流丘陵も見られる。また江戸期から「やな」が設置されていたところで,百目木(どめき)・大滝・黒滝ではアユ・マス・ヤツメウナギなどの漁獲があった。峡谷の中ほどには比高170mの明神断崖(みようじんはげ)があり,古来名所の1つとなっていた。山形盆地では勾配が1,000分の1以下になり,河川は蛇行して天童市大字藤内新田や,東根市大字荷口などに河跡湖が残っている。扇状地上の河川は伏流して地下水となるため,最上川の水量は豊富になり,平均毎秒200m(^3)以上になっている。山形盆地で合流する支川は,扇状地上を流下し勾配が急なため,土砂の流出が多く,また本流に直角に合流している。村山市の最上川三難所では最上川がU字形に大きく蛇行し,しかも勾配は900分の1以上で急流をなす。碁点は凝灰岩からなる岩塊が河床に碁石のように散在し,川幅は50m前後しかなかった。三ケ瀬は砂質凝灰岩が河流に沿って3層となり,渇水時には水面上に出て船の航行を妨げた。隼は水流が急で船の遡上は曳かねばならなかった。この三難所は最上義光の時代に開削されたもので,その後舟運が可能となった。上流側から大淀(おおよど)・長島・小滝(村山市)などの曳船集落があって,増人夫や瀬取り船に乗る人もいた。三難所より下流にある境ノ目・赤石(村山市),小菅(大石田町)など,大石田までの集落も舟運が盛んな頃には曳船に従事する人が多かった。大石田から舟形までの曲流部は,断層帯にあたり地盤変動がはげしく地すべりも見られる。河岸段丘の発達がよく,数段に及ぶ段丘が分布している。新庄盆地西部でも段丘はみられ,清水(最上郡大蔵村)付近や鮭川合流付近は特に段丘が広い。本合海の北に八向山断崖があり,矢向明神が祀られていて船人の信仰があった。最上峡は川幅が150m前後と狭いため,古口~津谷(戸沢村)間は洪水に襲われる。しかし舟運の上では勾配もさほど急ではなく,ほかの狭窄部に比して難所というべきところはない。東から吹く強風清川ダシが,帆走して遡上するのを妨げることはある。峡谷には白糸の滝など大小の滝があり,古口から草薙(くさなぎ)温泉(戸沢村大字古口)まで川下りの観光船が走る。峡谷の出口清川地区で合流する立谷沢川は土砂の流出量が多く,そのため川幅はかなり狭められている。清川上流にカキグラが設置され,秋のサケの時期にサケを捕獲し,鉈で切って鍋で料理してくれる。清川は標高27mで,河口の酒田まで33kmあるため,庄内平野における平均勾配は1,200分の1である。河口では河底に海水が入り込むが,最上川の流量が減ると上流側まで遡上する。流量が毎秒120m(^3)以上あると,海水遡上は3km以下となるが,流量が毎秒50m(^3)以下になると,海水は6km以上のところまで遡上し,農業用水や工業用水などに影響を与える。最上川の水利用は,農業用水がおよそ毎秒400tで10万haの耕地を潤しており,上水道が毎秒25tで50万人に給水し,発電は最大11万kwをまかなっている。本県にとって重要な水資源であるが,上流の水利用が適切でないと下流に影響を及ぼす。水質では上流部(松川)に西吾妻山地の硫黄鉱床から年間4,700tの硫酸イオンが流出する。天然の酸性毒水で羽黒川の合流後pH7と薄まるが,米沢市が被害を受けることがある。米沢盆地では米沢市の都市汚水や高畠町の産業廃水などにより,CODや塩素イオンが増加するが,伊佐沢峡谷を通ると自浄作用で流送物が減り,さらに上郷(かみごう)ダム(西村山郡朝日町)で著しく減少して浄化される。山形盆地に入ると蔵王火山に起因する毒水のため,再び硫酸イオンが増加し,塩素イオンやカルシウムイオンも増加する。蔵王火山の毒水は蔵王温泉から流下する酢川や,熊野岳から流下する蔵王川からもたらされる。酢川は年間約1万7,000tの硫酸イオン,塩素イオン4,500tを流送する。蔵王川は爆裂火口内の硫黄や硫化鉱から湧水する地下水が8,400tの硫酸イオンを流し出している。両河川が流入する須川は合計約2万6,000tの硫酸イオンを含み,pH3という酸性河川なので沿岸住民に全く利用されず,やむなく灌漑用水として用いられたときは,その後数年間影響が残って米が減収となる。最上川との合流付近ではpH4となり,合流したのちも酸性はすぐに薄まらず,3km以上下流になってようやく影響が少なくなる。このほか月山から流下する銅山川や寒河江川も,上流に銅鉱床による酸性毒水がある。都市汚水は年々増えて特にBODの増加が著しく問題となっている。赤川はかつて最上川の河口に近い飯森山で合流していたが,洪水の害を及ぼすうえ土砂を流しこむため,黒森(酒田市)で砂丘を切って新川をつくり,直接日本海に流すようにした。旧河道は水田化されて細い水路が残っている。
(古代~中世)最上川という呼称がはじめて文字に現れるのは「古今和歌集」の「最上川のぼれば下るいな舟のいなにはあらす此月はかり」の歌が最初である。
(近世)最上氏の領国の拡大によって,最上川水運は一層の進展をみたが,その1つは,村山地方の咽喉部にあたる大石田河岸の発展にみられる。
(近代)明治5年旧制度の廃止によって大石田川船役所は廃止となり,大小船の本流輸送も自由となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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