酒詰村
【さかづめむら】

旧国名:下総
(近世)江戸期~明治18年の村名。下総国相馬郡のうち。小貝川下流と利根川に挾まれた化土層を含む低湿地に位置する。地名は開発者酒詰治左衛門に由来するという。相馬谷原領のうち。はじめ治左衛門新田と称したが,正保年間~寛文年間に改称。はじめ幕府領,寛文年間佐倉藩領,正徳元年からは旗本間部氏の知行。開発者酒詰治左衛門は葛飾郡二郷半領青木村から移住し,寛永8年開発助成の功により,関東郡代伊奈忠治から除地1石余を与えられた(北相馬郡志)。村高は,正保年間491石余(郷村帳/長塚家文書),「元禄郷帳」では古くは治左衛門新田と見え538石余,「天保郷帳」「旧高簿」ともに538石余,「旧高旧領」540石余。嘉永3年の反別は田41町9反余・畑59町7反余(組合田畑反別帳/飯田家文書)。藤代宿の助郷役を負担。岡用水堰組合(32か村)に加わり,表郷用水路から灌漑する。低湿地で小貝川の決壊による災害にとどまらず,水はけが悪く湛水に苦しむ。酒詰家は開発名主として,名主役を世襲し,地頭用人となったこともある。また,同家は天保年間32か村の村民におされて岡堰総代の立会人として用水組合の改革にあたった。弘化3年の小貝川の決壊には自力で修復し,以後明治3・43年の洪水の難を逃れた。慶応2年の家数62・人数426(組合家数書上帳/染野家文書)。寺院は真言宗長福寺。鎮守は面足神社。明治3年の物産は米・麦・大豆・木棉(産物取調書上帳/染野家文書)。明治6年長福寺を仮用して詰教学校(のちの酒詰小学校)を開設(県教育史)。明治8年茨城県,同11年北相馬郡に所属。明治18年清水村の一部となる。現在の藤代町清水甲にあたる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7037236 |




