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佐久山村
【さくやまむら】


旧国名:常陸

(中世)南北朝期~室町期に見える村名。常陸国那珂西郡のうち。康安2年正月7日の佐竹義篤譲状写に那珂通高妻(義篤女子)分として「那珂西郡佐久山村」と見える(大山義次文書/家蔵文書)。延元元年,南朝方に属した那珂通辰は佐竹方の金砂(かなさ)城攻略後増井付近で滅亡するが,その孫通高は江戸氏を称し依然勢力を温存していた(新編常陸)。南部に進出しつつあった佐竹氏と江戸氏の共存の媒介としての義篤女子の存在は大きい。正長2年6月19日の宥尊授鏡日印信第二重の端裏書に「佐久山」が見え(六地蔵寺文書/県史料中世Ⅱ),永享8年6月27日の宥待授宥阿印信(小松寺文書/県史料中世Ⅱ),永享9年9月21日の宥尊授阿蔵印信(六地蔵寺文書/県史料中世Ⅱ),永享11年12月23日の宥尊授宥鑒印信(小松寺文書/県史料中世Ⅱ)に「佐久山道場」が見える。永享9年7月20日の宥尊授宥覚印信(六地蔵寺文書/県史料中世Ⅱ)・年月日未詳の願行流血脈(小松寺文書/県史料中世Ⅱ)に「佐久山浄瑠璃光寺」とあり,宥尊をはじめとする印信授受が見える。前掲,願行流血脈によれば,宥尊は常陸国那珂郡の人で佐竹志摩守義光の弟。瓜連常福寺第2世了誉上人(聖冏)の伯父。幼少時に「台家桑門ニ臨テ,天台ノ奥旨ヲ習」い那珂郡の静大明神に百日間参籠したのち,お告げによって「佐久山薬師」に参籠し「一心ニ求法ヲ祈」ったところ老僧が枕元に立ったという。それによれば「汝チ求法ノ志有ラハ,浄瑠璃光寺ニ入リ上宥阿闍梨ニ仕奉可」しという夢想告があり,やがて上宥と宥尊は「師弟契約」を結び,上宥入滅後,高野山に登り「尚事教ノ法相,淵底ヲ極メ」て高野流佐久山方として「一枝ニ習受」したといわれる。小松寺の開山,弟子達への教学を通して仏法興隆に努めているが,宥尊の出自が佐竹氏に求められることから,南北朝期以後,那珂川右岸に進出した同氏の政策の一環とも考えられる。「新編常陸」には「石塚村ニ……今佐久山ト称スル地ニ,佐久山薬師寺アル者,即其遺名ナリ」と見え,江戸期の石塚村,現在の常北町石塚付近に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7037264