東町?
【ひがしまち】

旧国名:下野
(近世)江戸期の日光門前町東部の総称。日光東町ともいう。江戸期の日光門前町は大谷(だいや)川沿いに東西に長く延びた町並みを形成しており,神橋を境に上流左岸の西町と下流右岸の当町とに大別された。江戸期の当町は,鉢石町(上・中・下)・松原町・石屋町・稲荷町・御幸町などの各町からなり,ほかに江戸初期には萩垣町があったが,寛文年間の洪水で流失し,住民は萩垣面に移住した。また,稲荷町・御幸町から下鉢石町にかけて横町があり,八乙女町あるいは火之番横町とも称した。当町は,もともとは中世より日光山の門前として栄えた鉢石町を中核として形成された町で,元和3年東照宮鎮座以後,上鉢石が開発され,寛永17年には山内中山通り付近から御幸町,本宮付近から石屋町・松原町へそれぞれ民家が移転され街並みが形成された。また,稲荷町は江戸初期には稲荷川右岸にあったものを寛文2年の大洪水後現在地に移転したもので,俗に出町とも呼ばれた(旧記・日光山志)。東町は日光街道終点の鉢石宿(鉢石町)を中心に街道に面して旅宿や土産品店が多く,また,日光山本坊の下僚などが多く住居していた。日光神領。はじめ日光目代山口氏,寛政年間からは日光奉行の管轄。高請はされず,その代わりに日光山の祭祀や日常生活に関係する諸負担は,神領内の村方が納物の形で納入したのに対し,町方は人足夫役の形でかけられた。天保14年の東町の夫役は,主なものとして,御宮大掃除栗石返人足(年2回),御供水屋掃除人足(年2回),御宮輪蔵風干(隔年30人),新宮太々神事御用人足20人,御仮殿庭上掃除人足,御宮五人掃除(毎日)などがあった(日光市史)。安永7年には,日光山の修復手伝普請に参加して渡世の支えにしていた日光町々の町人が,その縮小による困窮に対して騒動を起こした(県史近世6)。慶応年間「日光山森羅録」によれば,東町分の家数403・人数1,900。明治7年日光町の成立により,東西両町はその一部となるが,以後現在に至るまで日光の市街地東部を東町と総称している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7043404 |